第17話 哲学的ラブゾンビ vs
何分か待てば、ついに待ち人の声が聞こえ始めた。
「ここですね」
「いやはやちょっとこれは流石に中々、まあ、怖かったんじゃないか?」
覗き見れば春夏李は國分の腕にガッツリ抱き着いていた。小鹿のように足を震わせている。
(あの感じならいけそうだな)
(いいやまだだ。春夏李の怖がりは折り紙付き。あれくらいなら誰にでもする)
(誰にでもすんの!?)
「お疲れさまでした。帰りはちゃんと街灯のある道路沿いを歩くそうですから、怖いのはここまでですよ」
そう、だから吊り橋効果はここまで。今日やるつもりならここしかない。
「ちょっと休憩していきましょうか」
「それには賛成するんだけどね、よりにもよって、こ、ここでってのは怖いな……」
「大丈夫、わたしが着いてますから」
「そ……そうだね」
國分が春夏李を伴って石碑に近付いてくる。これでは流石に覗き見るとはいかない。素直に裏に隠れ、春夏李たちと背中合わせになる形で腰かけた。声だけが聞こえてくる。
「あー、その……ごめん。ずっと手を握ってもらって」
「落ち着きましたか」
「うん、もういいよ。随分助かった」
「おや、そうですか? まだ鼓動は早いですけど」
春夏李から声にならない悶絶が上がっている。
(手首の脈か?)
(あるいは直接胸に触れてたりするかもな)
(……!? いや國分ならやりかねないか)
「ふふ、やっぱり可愛らしいですね」
「……そういう言い方をされてしまうと、ちょっと警戒、してしまうんだけれど。ああいや、分かっているんだけれどさ」
「ああ、ごめんなさい。悪いクセですね」
「危ういクセじゃないか!?」
「たはは、ちなみに何を分かっていただいている感じで?」
「えっそうだな。その——人が同性を好きと聞くと、まるでその人が同性全員を性的な目で見ていると錯覚しがちだけれど、冷静に考えればそれは当然、自分が思い上がっているだけ——というようなことを」
「ありがとうございます。その通り。わたしにだって心に決めた人がいるわけです。炉端さんと同様に」
「……ああ。そうだね」
「そうだ、水でも飲みますか? わたしが口を付けてしまっていますが」
ちゃぷりという水音。ペットボトルを持ってきていたらしい。
「ならいただこうかな」
「はい。では」
國分の声色はずっと変わらない静かなものだった。その直前になっても。
「えっ? ——え、ん——!? んん——!!」
春夏李の口が塞がっているようだが、察するに無理やり塞がれた感じだ。ぴちゃりとぺたつく水音はペットボトルから水を飲むときのそれではない。
——おいおいおいおい。
乃木が自分の唇に触れる。
(なあ望月、これ裏でかなりすごいことが起こってるよな)
(いきなりいくのは流石に情熱的だな。いやはや、見れないのが惜しいよ)
(お前なんか変な性癖に目覚めないか? 大丈夫か?)
「——ん、ぷはっ! は、はあ——」
「失礼、言い間違えました。今から口を付けるところでしたね」
「なっ……に、言って……」
「好きです、炉端さん」
「は——」
「わたしと付き合ってもらえませんか」
乃木と二人、おおーと感心する。スピード感と度胸が凄まじい。
「……。それは……」
春夏李は多少の時間をかけて状況を飲み込んだ。深呼吸して何か言おうと息を吸ったところ、しかしまだ國分に阻まれる。
「実はわたし、二年前、炉端さんの生誕にシャンパンを開けさせてもらったんです、ほらチェキもあります」
「——え? え、え。うわほんとだ、ほんとじゃん!」
(生誕!? マジか!!?)
(生誕ってなんだ?)
(生誕祭。コンカフェ譲が一年で一番稼ぐイベント。そこでシャンパン開けた客のことを忘れるなんてあり得ないはずなんだが——)
「——ってこれ、あのとき踏んであげた炭酸スパイダーちゃん!!?」
——随分尖った名前で通ってるな。
「はいそうです! 思い出していただけましたか! すももちゃんに命名してもらった炭酸スパイダーです!」
(お前の命名かよ!)
(すももちゃんは炉端のことか?)
(ああ、春夏李の源氏名が「すもも」だな。春夏李の「李」の字で「すもも」と読むらしい)
「えっ……え!? いや、え!? 変わりすぎじゃないかコレ!! 別人なんだけど!?」
「遅れた成長期来ちゃったみたいでして」
「そ、そうなのか……。心配していたんだよ。営業にも返事が来なくなっちゃったから」
「推し活にお金を使うのは控えるようにしたんです。ごめんなさい」
「それは、いいけど……」
一年以上、俺なんかよりもずっと長い思い入れ。生誕でシャンパンなんて空けたら十万二十万は余裕で吹き飛ぶ。それほど入れ込んでいた相手なのだ。
「運命なんです。入学式のあの日に春夏李さんを見たとき目を疑いました。こんなこと運命以外にありえない。これがわたしの想いの全てです。お願いします、炉端春夏李さん」
俺はこの夏休みもれなく毎日春夏李と過ごしてきたが、その経験でもって確信できる。春夏李はこの告白を了承する。春夏李の評価は顔や身体が第一にあり、次点で執着を受け止める器があるかを見る。國分はその点満点だ。疲弊気味な俺よりも条件を満たしている。そもそも俺と春夏李は付き合っていないのだから、一旦オーケーすることになんの躊躇も要らない。合わないと思えば後から振ればいいのである。
それでもなお振るというならば——。
「気持ちは凄く嬉しい。でもごめん。身体が女性の人とは付き合えない」
——ダメか。けどこの言い方は……やっぱりそうなのか。
「はい、分かりました」
國分のそのあっけらかんとした返事は、相手に気負わせまいという気丈な振る舞いは、人生への一種の諦めを感じさせるものだった。残酷な、諦め。
國分の気配が遠のいた。多少歩いたようである。少しの間をおいて春夏李に尋ねる。その声は悲嘆というよりは、純粋な疑問の気配だった。
「炉端さん、今、理由に『身体が女性だから』と言いましたね」
「言ったね」
「つまりわたしの身体が男性ならば了承したということですか?」
「二つ返事だったね」
國分の声に棘が生える。
「望月さんがいるのに?」
——え?
「キミは倫斗よりも条件良いし。そうだね、残念だよ」
「望月さんはそんな簡単に捨てられる人なんですか? あんなにあなたのことを想っている人を?」
額に汗が浮かんだ。國分が俺のために憤るのは想定外だ。
「そうだね。ああ、言ってなかったっけ。そもそもボクと倫斗は付き合ってないんだよ」
乃木から目線を貰う。頷いて返す。
「好きでもない人と四六時中一緒にいるということですか? 好きでもない人をずっと束縛してるっていうんですか? 好きでもない人と毎日寝ているんですか?」
「そうだよ? それが?」
「それで満たされるわけないでしょう」
「満たされるよ? 身体的接触による安心感。共感コミュニケーションによる充足感。試し行動に堪えてもらうことによって得られる自己肯定感。性行為で満たされる欲求。どれもボクは十分に楽しんでいるけれど」
「——まさか。炉端さん」
國分がたじろいだのは心理的な隔絶の表れ。
「『好き』が分からないのですか?」
「それを構成する生理的な理屈は理解しているよ」
「いいえ、いいえ違います炉端さん、違う……はずです」
「その、『可哀想』って目で見られるの。あまり好きじゃあないんだよね。いいんだよ分かってる。ボクの方が異常者なのは重々承知だ。ほら、こんな人間と対等に付き合わせるのも悪いだろ? これくらいでいいんだよ、倫斗だっていつか嫌気が差してボクを捨てるだろうけれど、それもしょうがない。津々浦々と乗り換えてまた誰かに依存するよ。ボクはそれが出来る人間なんだ。あるいはこうも言える。キミがトランス男性であるように、ボクもアロマンティックである、と」
「軽々しく口にしないでください」
國分の声は一転して冷ややかになった。裁判官が被告を非難するように。
「行き辛さに思い悩んでいるアロマンティックの方に失礼です」
「その通り。軽々しい言葉だし、ボクはそういうのが何もかも嫌いだ」
「なにを——」
「ボクが思うに——」
國分に当てられて春夏李もつっかかるような調子になっている。それは物理的にも、精神的にも。
「——ボクはボクでしかない。キミがキミでしかないように」
剥き出しの哲学でもって。
「下らないんだよね。一生男友達だけいればいいだとか、一生女友達だけいればいいだとか、男しか抱けないだとか、女にしか抱かれたくないだとか、運命の人だとか、この人しかいないだとか、好きだとか愛してるだとか、そういうのはどれもこれも下らない、言葉に酔った子どもの戯れ言なんだ。なにがロマンチックだよなにがプラトニックだよなにがアセクシャルだよなにがクィアだよ、言葉が先にあって自分をその枠組みに当てはめようとしてるだけじゃないか。人間同士の接触に存在するのは肌の接触による心理的効果と、性行為によってもたらされる欲求の満足だけ。ロマンチックだなんて概念は性欲の後ろめたさを誤魔化す人間社会の潤滑油でしかない。ああ、じゃあボクは、性愛は認めるけれど恋愛は認めないボクは、アロマンティックなのかって? そりゃあ確かに今はそうかもしれないけれど、未来にどうなっているかはわからない。だってボクは世界中の全ての人間に会ったわけじゃあないんだ。森羅万象に触れたわけじゃない。エッフェル塔を見た瞬間にエッフェル塔に恋したらどうする? ならばボクは対物性愛者だったわけだ。オブジェクトフィリアなわけだ。もしそうなったとしたら、過去のボクはなんだ? アロマンティックでは無かったのにアロマンティックを名乗っていたかもしれない、自分の真実を知らないうちに、自分に名前を付けようとしていたかもしれない。それはみんな一緒だ。そういうことを理解して各々方はマイノリティを騙っているのか? 病気だと嘯いているのか? 下らないんだよ、下らない。そんな脆く下らない嘘の言葉遊びにボクは付き合わない。ボクはボクでしかないし炉端春夏李でしかないんだ」
春夏李は悠々と長演説を披露した。それはこの場を支配している者の振る舞いだった。面接なら会社側、問いを突きつける側。それは不意打ちであると同時に洪水でもあった。地震を伴わない津波のようなものだ。対処は不可能。そう思われた。
だからこそまったく間も置かず動揺の気配もなくぴしゃりと言い放たれた「それはただの逃避です」という言葉を受け入れるのには数秒以上の時間がかかったのである。
あまりにも早すぎる看破だった。
言ってしまえば俺たちは全員、國分依舞という人間を見くびっていたのだ。この場で唯一の「大人」を舐めていた。矢面に立たされたのは國分ではなく、春夏李だったのである。
「それはただの逃避です。自分の感情に向き合うことから逃避しているだけです。他人の感情を理解することを放棄しているだけです。人間の感情や関係はただの言葉や概念に収まるものではありません。言葉やラベルに限界があることは否定しません。未来の自分が変わっている可能性もあります。けれどそれは『成長』と捉えるべき出来事なのではありませんか? それは人間が成長する証拠であり、経験を通じて自分を再発見する過程でもある。誰かを愛したり、何かに魅力を感じたりすることは、決して子供の戯言なんかじゃあありません」
おそらく春夏李は自分が刺されることになるだなんて、まるっきり想像していなかったのだろう。面食らっている春夏李に、國分はなおもたたみかけていく。
「個別に複雑で多面的な事柄をあえて一様に捉え批判しようとするその姿勢は他人への冒涜です。それはもがき苦しむ自分を軽んじることと同義です。マイノリティを軽蔑するなら自分をマイノリティに分類できないし、病人を見下すならば自身の病気と向き合うこともできません。その先にあるのは満たされない孤独とただただ不幸な人生です。人の過去と体験を無下に扱うことは、自分の過去と向き合うことから逃げているだけでしかない。そしてそれは成長の機会の放棄でもあります」
「——なに? キミ、ボクの何を知って——」
國分は暗に炉端の過去を引き合いに出している。あくまで濁しつつ。
「炉端さん、あなたは緩慢な自殺に身を委ねて楽になろうとしているのではありませんか」
「な——」
「わたしにはあなたのことが、先のことを考えないようにして、わざと未来を投げ捨てて、自暴自棄になっているだけにしか見えません。自分の人生を自分から突き放して見ないふりしているだけなのではありませんか?」
「っ——ハッ! じゃあキミはどうだっていうんだよ! 十六、七くんだりで水商売への浪費にハマってたじゃないか!」
「それを止めたのは、性転換の手術を現実的に考え始めたからです。そのためにはお金が必要だから、せめて高卒が必要に感じた。だから働きながら学べるここに通っているんです」
総員、絶句した。國分に返せる言葉を持つ者はこの場には誰一人としていなかった。誰よりも立派だった。だがこれは國分の意図するところでもなかった。
「……ここまでですね。すみません、ここから先は説教になってしまいそうですから、止めておきます」
退く前に一言。
「ただ……考えてください、炉端さん。考えるんです、自分のことも、望月さんのことも。真剣に。ひたすら真剣に考えて判断してください。それが自分を知るということです。そうしなければ、きっと……後悔することになります」
「……参考に、は、しておくよ」
空気を切り替えようとしたのだろう、國分はパンと手を叩いた。
「さ! ちょっと気まずくなっちゃいましたけれど、というか元はといえばわたしのせいなのですが——本懐を遂げましょうか。カメラはお任せあれ!」
「いや……ボクが撮る。盛れてないボクを写真に残すなんて許せないから……」
二人が去ってから、俺は乃木に事情を説明しつつ、林道を急いで戻り、國分と春夏李よりも先に集合場所に戻った。
——でも、なんなんだ? 「好き」って。
春夏李が國分から突き返された問いだ。
確かに春夏李は「好き」を理解していないように見える。「好き」が分からないから、取引のような形でしか人と付き合えないのだろう。だが——。
『身体的接触による安心感。共感コミュニケーションによる充足感。試し行動に堪えてもらうことによって得られる自己肯定感。性行為で満たされる欲求』
これらを複合したものは、それはそれで「好き」なのではないだろうか。
哲学的ゾンビに魂はあるのか? 春夏李の「好き」は「好き」なのか?
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