第13話 幸あれかし

 教卓の中を確認すれば、いつも通りに落書き帳があった。


「忘れ物?」と尋ねたのは一緒に来ていた水壺。

「まあそんなところだな」

「なぜ教卓に?」

「終業後に椎名先生がチェックして、机の中に何かあれば教卓に入れておくん——だ——」

「なるほど。同じ教室を使う全日制に物が残っていたら迷惑だから、か」

「——なんで今まで気付かなかったんだ」


 なるほど道理だ、俺は椎名先生に借りがある。最初は本当にただただチェックをすり抜けたのかもしれないが、しかしそれ以降の俺と「彼女」のやり取りは明確に意図して見逃されている。今となっては教卓の中でのやり取りになっているが、初期の机の中でのやり取りは間違いない。椎名先生は俺と「彼女」のやり取りを、見たり見てなかったりして——全部見ていられると恥ずかしいので時々くらいで許してほしいのだが——俺のために見逃してくれたのだ。


 となると一つの疑惑が浮かぶ。自分の机に着いて、落書き帳の字をじっと見る。しかしどう見たって、椎名先生が授業中に書く文字とは別物だった。偽装すらあり得ない。間違いなくこの字は椎名先生のものではない。


 ほっと胸を撫で下ろしていたところ——なぜそんなにも恐れて、かつ安堵したのか自分でもよく分からないが——ノートから一片のしおりが落ちた。


「……?」


 床に落ちるそれは、まるで夏を詰め込んだかのような爽やかな色をしていた。水壺が拾い上げる。


「望月、四葉のクローバーでしおりを? 風流だ、よきかな」


 水壺から受け取ったのは綺麗にラミネートされたしおり。水色の色紙に四葉のクローバーと色彩鮮やかな花弁が敷かれている。裏返してみれば、色紙の裏には日の丸みたいな太陽が描かれていた。中央に一言、いつもの丸文字で書かれていたのが——。





『あなたに良いことがありますように』





「——」


 得も言われぬ衝撃を受けた。ショックに脳が開かれる感じがした。

 感動のあまり掲げてしまう。電灯に照らされて翳る。


「凄い、な。素敵だ」


 水壺は何かと首を傾げている。


「凄い嬉しいよ、ありがとう」


 ——お返ししたいな。





 学校からの帰り道、公園に寄り道した。俺がクローバーを漁るのを、ベンチの春夏李は冷たい目で見ている。


「全くどうしたんだよ突然、四葉のクローバーを探したいだなんてさ」


 群生したシロツメクサに携帯のライトを向ける。 


「なんとなくな」

「クローバーなんて、ただの草じゃん。何がありがたいのやら」


 腰に手を着いて身体をぐっと逸らした。夜空の中心にあるのは、眉のように鋭く欠けた三日月だ。雲を散らしてキラリと輝いている。


 ——綺麗だ。


「意外と見つからないもんだな」

「ねえ倫斗、まだやるの? もうしばらく探してるけれど」

「もうちょっとだけ、ごめん。先に帰ってくれててもいいぞ」

「それこそありえないけどさ」

「じゃあ、手持ち無沙汰なら手伝ってくれないか?」

「ええー……まあ、はあ、いいか」


 春夏李も膝を曲げて探し始めてくれた。今日の春夏李はアリス風なので、四葉のクローバーを探す姿は中々に映えている気がする。勝手に撮ったらそれを機に撮影会が始まってしまった。

 写真をチェックされるが、反応を見るに出来栄えはあまり良くないようだ。


「やっぱり夜だと難しいね。もっといいカメラの付いた携帯に変えたら?」

「十万円あったら電動自転車の方が買いたいな」

「もっとファンシーに……そうだ。花冠でも作ろうか」

「花冠?」

「シロツメクサと言えば花冠……じゃないか……? あれ?」


 春夏李は首を傾げる。


「そういえば、子供の頃は花冠を作ったりしてた気がする」

「へえ。ちょっと意外だな。今やただの草呼ばわりなのに」


 きょとんとしたまま目を合わせた。


「とはいえ子供の頃ならおかしくないか」

「まあそういうことなんだろうけど……凄く久しぶりだ。そんなに昔のことを思い出すのは……」

「せっかくだ、教えてくれないか? 作り方」


 そのとき浮かんだ春夏李のパッと明るい笑顔は、ほとんど初見の表情だった。

 月光を背に花の茎を編む、元気で無邪気な銀髪のアリス。


「いいとも! せっかくなら派手に摘んでやろうじゃないか!」





 四葉のクローバーは見つからなかったが、心は晴れやかだった。とても落ち着いていた。

 だから、家に帰ってみようという決心もついたのだ。


 門扉に手をかければ錆びた蝶番が悲鳴を上げる。並ぶ植木鉢は全て雑草に鹵獲された。空虚に鳴る敷石を渡って玄関扉に着く。カギを回す。

 廊下には電気がつきっぱなしだった。分別のされていないゴミ袋が積まれている。スイッチを押して電気を落としながら廊下を進んだ。目の前にはリビングの扉。


 深呼吸。


「よし——」


 手をかけると同時に扉が開いた。俺の力ではなく、向こうから押す力で。


「倫斗! 倫斗じゃないの! お帰り!」


 望月瑠美は笑顔で俺を出迎えた。痩せぎすでやや強迫的な雰囲気のおばさんだ。骨ばった顔から目だけがギョッと飛び出ている。髪はしばらく染めていないのか白髪が覗いていた。


「た、ただいま」

「ちょうど倫斗の顔が見たいとお祈りしてたところなのよ!」

「ああ……そう」


 肩に手を回されてリビングに入った。瞬間異臭がする。キッチンの方面、しばらく放置された洗い場が原因のようだ。

 神棚に並べられた造草は確か神気を流すとか言うもの。三万円。机の上には箱ばかり高級な数珠や宝珠。十五万円。壁にかけられたいくつかの額には「先生」自ら書いたという経文。五十万円。

 深呼吸して胸を押さえる。


「掃除しなくちゃね、ちょっと臭うよ」

「そうね。ねえ、お母さんのお話聞いてくれるわよね」

「まあたまにはね……」


 促されるまま席に着けばカプセルの薬と水を与えられた。これは初見のものだ。


「なにこれ」

「お薬よ。身体の穢れを流してくれるんだから。ほら、一緒に飲みましょう」


 ギリっと強く手首を握られた。


「……そうだね。飲んでみるよ」


 飲み込まず齧ってみれば知っている味だった。春夏李の常用している睡眠薬と似た味だ。


 ——ただの眠剤かよ。ああーいい商売してるなー。いくらしたんだろこれ。


 微笑んで「効いている気がする」とか言っていると、雑多に散らかった机の上に一冊の通帳を見つけた。その表紙のデザインが記憶の中のそれと合致して——。

 ゾッと血の気が引いた。視界がせばまりそれ以外のものがぼやけていく。


「その通帳」

「え? ああこれね、先生がわざわざ調べてくださってね」


 意味が無いと分かっていつつも手に取って開く。それは父さんの保険金が振り込まれていた口座だった。自営業の卸売に窮し、過労に倒れた父親の。


「貸金庫になんて入れてくれてたのね。聞いたことないような名前の銀行で。暗証番号も変わっちゃってたし、手続きが凄く大変だったわ」


 身体を割らんばかりだった拍動は、最後の行を見た途端に止まったかと思われた。


「うっ——」


 手で押さえたがどうしても無理だった。吐き戻してしまう。

 もはやその価値を失った通帳に、黄色く酸っぱい液体が溢れ出た。春夏李と食べた夕食の麺がべちゃりと伸びる。


「——!!? ああ、もったいない!!」


 目の前の女性は音を立てて机に乗り出すと、血相を変えて俺の手元から通帳を取り上げた。すぐに口元に呷るように持っていき、吐しゃ物を飲み込んでいく。


「——」


 俺はただ、その人の喉が動いているさまを見ていた。

 胸の中が渦巻くように、ひっかくように、温く撫るように。ひたすらに気分の悪くなったのが、気分の問題なのか、生理的なものなのか分からなかった。

 ひとしきり飲み終わってからも二桁の数字をしつこく舐め回している。つい目を逸らした瞬間に、狂気的な絶叫あるいは怒声が飛んできた。


「こんな!! こんなことありえないわよ!! 先生が直接祝福してくださった薬を!! ただ慈悲がために、堕落の罪を雪ぐ御薬をお授けくださっているのよ!!」

「ひっ——」


 俺はただ怯えながら、逃げ場を探した。椅子を倒し、リビングの扉に近付こうとして——。


「待ちなさい!! 倫斗!!」


 机を殴った拳の音に、ビクリと身体が震えた。どんどんと詰め寄ってきて、握ったリモコンを振り上げる。それは、電灯に翳るリモコンは、何度も見てきた景色。子どもの頃、から——。


「や、やめ——やめろ!!」


 俺は彼女を押し飛ばした。その人は昔に比べればずっと細く弱くなっていて、俺の力なら簡単に跳ね除けることが出来た。角に腰を打ち付けて、どさりと倒れる。


「うぅっ」

「あっ、ごめっ——」


 寿命の虫のように床に丸まった、間違いなく俺の母親は、わざとなんじゃないかと思えるくらいに身体を震わしながら、せわしい仕草で携帯を叩いていた。


「あ、ああ。む、息子が、暴力。警察、警察に電話、しなくちゃ……」


 それを見た瞬間に——堪忍袋の緒が切れた。


 ——そうだった。俺の方が力が強いんだった。何も恐れることは無かった。


 右手を蹴り飛ばせば、情けない声と共に携帯が転がっていく。


「父さんの遺してくれた通帳まで食いつぶして何を被害者面してんだよ死ねよ」


 弱弱しく丸まった母親の背中に足を着ける。俺の足がぴたりと着いた瞬間、身体は面白いくらいに跳ねた。恐怖に固まる身体を足の裏で叩いていく。初めは軽く、トントン、と。


「死ねば。死ねよ。死ね」

「い、いやあ……」

「その被害者面がさあ。全部お前のせいだろうが。社員さんがみんな逃げて行ったのも、父さんが死んだのも。責任取って死ねよなあ。死ね。死ね——」


 語気と共に、足に入る力が強くなっていく。


「死ね!! とっとと死ねよお前も!! 父さんみたいに!! 生命保険にはかけてんだから、父さんとっ——同じ様に!! 死ね——!!」


 思い切り、床を踏み抜くつもりで——。





『この傷痕? えっと……ああ。いや、そうだね。誰にやられたと思う?』

『ほらこれ、このニュースで保護された子どもがボク。こっちに映ってるのが……そう。ボクの……お父さんだよ』





 最後の蹴りは外れていた。


「はあ、はあ……」


 行き場のない怒りを拳で握り締める。長く息をすることを意識する。依然、母さんは目の前に転がり、背中を向けて震えていた。


「あ……謝らない。今日ばっかりは、絶対に謝りはしない。通報するならしろよ。入れればいいだろもう一回。二回目ともなれば一年以上は顔を合わせなくて済むだろうな。清々するよ!」

「わぁ……私ぃ……」


 まるで子供のように泣き始めるのを見て、むしゃくしゃするまま頭を掻いた。


「クソ……!」


 財布から一万円を五枚か六枚くらい取り出して机に叩きつけた。カップ麺を始めとした日持ちの効く食料の詰まったリュックも置いていく。

 まるで森で獣に追われるかのように、急かされるようにして外に飛び出した。


「はあ、はあ……」


 泣きそうになるのを堪えて視線を上げれば、雲間から覗き見た月がせせら笑っている。


「なん、なんだよ……!」


 ポケットの携帯が震えた。びくっと肩が震える。着信だ。


「……深呼吸。深呼吸」


 恐る恐る——見れば。画面に表示されていたのは母親の名前では無かった。


「——春夏李」


 緑色のアイコンをタップして耳に当てる。


『あ、倫斗、倫斗! やあやあ聞いてくれよ、実はさっきボクの家のすぐ前で——』

「春夏李」

『——どうかした?』


 春夏李の声色の変貌を耳にした途端、スーっと血の気が引いた。脳は冷ややかに、しかし心臓は逸る。


「あ——」


 しまった。やってしまった。また俺は——。


『いや、何も言わなくていいよ。カギは空けて待っているから』


 まるで造花のようなできすぎた声に、俺は何の返事も出来なかった。

 脱力した。肩に力が入らない。ひたすらの無力感に体を支配される。

 俺たちはどうやったら救われるのか?





**





『人を救うにはどうしたらいいんだろう』


 脈絡なく突如として紡がれた不安定な筆圧。


『水壺のやり方は間違ってるはずなんだ。でも、あれはあれで救いの一つの形なのかもしれない。そして俺には、まったく何も思いつかないんだ。水壺は二人に一人救うだろうが、俺だったら二人とも救えない。だってのに水壺を糾弾することは……できない。俺に何ができるっていうんだろう』


 ——私も大した人間じゃないから滅多なことは言えないんだけど……。


 一度タイプで文章を作ってから、書き損じないように注意して一文字ずつ丁寧に書いていく。


「私が思うに——『救い』とは、人の心の扉を解き放つことだと思う。『救う』とまで大きく出るならば、各人ごと、考えて考えて考え抜いた遥か彼方に差す一片の光明、荒涼たる砂漠に埋まったたった一つの鍵であるはずなんだ。革新的で打破的で転回的なパラダイムシフト。ミステリ作家が虚を突く一言でひっくり返すような、準備も心構えもできないうちに隕石が地球を破壊するような、背景も文脈も無視して機械神が降臨するような、回避不可能の交通事故に遭うような——でなければならないんだよ。君にはできる、できるはずだ。最短最速ではない。遅々とした道のりかもしれない。でもきっとできる。見つけられる。私は君を信じているよ」


 期待。それは力量が及ばなければ絶望に転じる残酷な想い。しかし彼女は彼なら耐えきれると踏んだ。そして、背中を押したのだ。





 緑の青く、波間の煌めく、潮風の香る、アブラゼミの鳴く、陽炎の燃える。

 燦燦たる真っ青な夏空の元をセーラー服の少女は行く。伸ばしすぎた黒髪をウザがりながら。

 カバンから落書き帳を取り出して、潮風にめくれるページを抑えつつ内容を振り返っていく。


「この文章、無自覚で書いてるのかなあ」





『この関係をやめたいかというと自分でもよく分からないんだけどな……』





「彼は春夏李ちゃんに同情したというけど、『同情』は『好き』じゃないと思うんだよね。かの二人が『好き』なら——」


 海を臨む公園のあばら家に着いて、レジ袋を置き、髪を持ち上げてうなじに風を通す。


「本当に交わされていたのは『共感』」


 水平線には蜃気楼。遥か立ち上る入道雲。氷菓の封を切る。


「なら依存してるのは春夏李ちゃんだけじゃないんだろうな」


 キャンデーを舐めながら、摘んだ花をファイルに挟む。代わりに拝借してきた短冊を抜き出して眺めた。

 太陽に翳せば、水色に透き通る。


「ああ。ただ——幸あれかし」





   二章「潮汐ロック」 ここまで

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