第11話 対話

 保健室のベッドに腰かけたまま、右手首を電灯に透かして見る。包帯どころかガーゼにテープにネットにでぐるぐる巻きである。


「いやはや、びっくりした」

「こっちのセリフだよ。全く、何を間抜けな事やってんだい。もっとスマートに取り上げられなかったの? はあ、クソ、まったく。なんでボク以外の女に傷をつけられてんだよ。こんなに大きな傷をさああ!!」

「いだいいだい、握らないで」


 保健室の扉が開かれる。


「失礼します。——望月」


 保健室の先生と会釈を交わした来訪者は我らが担任、椎名先生である。


「椎名先生。大変ですね、残業確定ですか。終電乗れるといいですね」

「なんでオレの心配をすんだよお前はよ。あとオレは車だ」

「そうだよ倫斗ったら本当にバカなんだから!」

「え、すみません」

「——謝るのはオレの方だ」


 椎名先生は俺の前で両膝を着くと、まるで時代劇で見る武士の礼のように頭を下げた。


「すまない、オレが悪い」

「ええ? いえ、別に全く椎名先生のせいじゃありませんよ?」

「いいや。瀬戸見たちのことを気にかけるよう頼んだのは俺だ、謝ってすまないのは分かっているが、すまない。本当に、すまない」


 先生の声には嘘偽りない悲痛の気配がある。


「そんなことは。だって——」


 悪いのは間違いなく水壺だから。なのだ、が——それは言えなくなってしまった。


 その理由は、さっき水壺から送られてきたメッセージにある。通知の時点で画像が表示されていたので春夏李に見られないよう秒で消した。しかしそこには確かにその写真が表示されていたのだ——俺と小泉のツーショットが。駅前を歩く俺たち二人の写真。しかも場所はプラネタリウムを見た駅、小泉の地元の駅である。これは明らかに俺と小泉が病院外で遊んでいたことを示しているし、それ以上に、この駅が小泉家の最寄り駅だという点で、更なる憶測を生みかねない。


 なぜ水壺がこの写真を持っているかは置いておいて、これを送付してきた目的は明確だ。「口止め」である。水壺の名前を出したならばこの写真を春夏李に送るぞ、と脅されている。随分と用意周到な事である。


 ——そこまでして美咲と美鈴の仲を引き裂きたかったのか? なんのために?


「改めて、申し訳ない。親御さんにも謝りに行かせてもらう」

「え、母さんにですか? それは——」


「それだけはボクからもお勧めしないよ先生。倫斗が許しているっていうならそれでいいし、実際のところ椎名先生が倫斗にそんなお願い事をしてただなんて、倫斗の他には数人しか知らない。この怪我と直接関係してるとも言い辛い。それよりともかく——倫斗に不幸があっただなんて倫斗の母親に知られた暁には、倫斗はもっと家に帰りづらくなる」


「そう……か」

「そうですね。そうしましょう先生。あれは誰がどこからどう見たって事故でした。学生にはありがちな事故です」

「じゃあ、すまない望月。甘えさせてもらう。甘えさせてもらうついでなんだが——美咲が望月と話したいそうだ」





 椎名先生がノックすれば、中から生徒指導の先生が出てきた。生徒指導の先生はアイコンタクトだけ残して立ち去る。二人ずつくらいしか座れない狭い応接室には、もう瀬戸見美咲その人しかいなかった。


「すまんな美咲、大人が一人は同席しなくちゃあならないが」

「いえ……大丈夫です」


 美咲はぐすりと鼻をすすった。対面に座る。椎名先生は脇に立って見ているようだ。


「美咲は……えっと、怪我はなかったか?」

「私は、大丈夫」


 美咲の「大丈夫」は今のところ信憑性ゼロ%である。


「見せてくれ。——指先切ってるじゃないか」

「あっ」


 勝手に指を取って春夏李から持たされた絆創膏を撒きつけた。女子の割には骨ばっていてイケメンな手である。楽器を握ると映えそうだ。


「女子力あるね……」

「その言葉は春夏李に言ってやってくれ」

「……罪な男だ」


 多少気も和らいだらしい。


「美鈴とは?」

「気を失ったらしくて」

「そうか。美鈴、なんだが」

「うん」


 美咲は俺の言葉を待っている。俺が呼ばれた理由はそれだろう。美鈴の豹変の理由を知っているのは俺だけだ。直接の原因が水壺にあるのは事実だが……しかし少し時間が経って、あくまで水壺は「刺激しただけ」なのではないか、とも思い始めた。問題は確かに存在していたのだ。「時間の問題」が。





『やっぱり、私のせいで……』





 慎重に、美咲の様子を伺いつつ語る。


「美鈴は……なんというか。以前から、自分が美咲の負担になってるんじゃないかって、思っていたみたいだ」

「うん」

「行き違いだとは思うんだが……それを不安に思っていた。その気持ちが、あの電話がきっかけになって、爆発してしまったんだと思う」

「私……」


 涙ぐむ美咲にティッシュを勧めてしばし待つ。


「私、そんなつもりじゃなくって」

「そうだな。そんなわけない」


 美咲はグスリと鼻を鳴らす。


「それで……俺から見るに、美咲は美鈴と、腹を割って話す必要があるんじゃないか……と思う。もちろん今すぐじゃなくてもいい。けど、でも、そうだな。今すぐじゃなくても——」

「——分かってる。話さなくちゃ、いけないんだよね」

「できれば一度口にしておいた方がいい。その方がきっと言葉もまとまるし、気持ちも整理されると思うから」

「私、は……」


 美咲はボロボロと涙をこぼしながら、嗚咽と共に本音を吐き出した。


「私は、お姉ちゃんを嫌いになりたくなかったの……」


 美咲が握る両手は震えていた。まるでずっと共にあった寄る辺を、道しるべを、手放すことを恐れて。


「私、みんなと一緒にいるのが、楽しくて」

「ああ」

「怖かった。楽しいって思うのが」

「……そう、か」

「お姉ちゃんのせいで、楽しくないって思うかもしれない自分が、怖かった……!」


 それが理由。社交を絶って、美鈴の傍にいることに固執した理由。

 美鈴のことが好きだから。好きじゃなくなるかもしれない自分が怖かった。だから学校に来たくなかった。学校にさえ来なければ、姉のことを嫌いになる可能性はあり得ない。

 それは学校を辞める理由にすらなり得たのである。


「俺は——」


 美咲のこれは問題の先送りに過ぎない。

 そう言うのは簡単だ。しかし今彼女にかけるべき言葉は違うだろう。

 美鈴だって美咲が楽しくあることを望むはずだ。

 いや、美鈴がどう思っているかなんて分からない。これは美鈴の言うべき言葉だ。

 結局のところ俺が責任を取れる言葉は、俺一人の身の丈でしかないのである。


「俺は、美咲が学校に来てくれた方が、やっぱり嬉しいよ」





 春夏李と二人、帰路に着く。右手首の負傷を気にされているのか、繋ぐ手は指を多少絡めるくらいである。それでも左右は入れ替わらない。もうこの位置が馴染んでしまった。


「よかったのかい?」

「救急車を断って? 悪いだろこの程度の怪我で呼んじゃあ」

「瀬戸見美咲と瀬戸見美鈴の対面に付き合わなくて」

「二人の問題だし、もう俺ができることはないよ」

「倫斗の問題では無いんだね」

「あと、一応の彼女をほったらかしにしすぎるのも悪いと思ってな」

「一応の彼女のことを覚えていてくれて嬉しいよ。今日もODリスカをキメなきゃいけないところだった」

「そういうことを言えちゃうのが春夏李の良いところだと思うよ」

「良いところなわけないだろ!」

「そうだが!!? 止めろ!! 自傷行為を匂わせて脅すのを!!」

「あー!! やっぱりそうなんだね。心にもない言葉で慰めただけだったんだ。適当に気を遣っただけなんだ。フン、男っていっつもそうなんだからさあ!」

「クソ女……」


 特に示し合わせることも無く春夏李の最寄り駅で一緒に降りた。残っていた総菜をカゴに放り込んでいく。


「ありがとうな、止血してくれて」


 結構派手に出血していた。春夏李の服は洗濯も大変そうだし、悪いことをしてしまっただろう。


「ああ、あれね。咄嗟のことでちょっと後悔してるよ。思えばちょっと必死になりすぎたね、らしくなかった。自省」

「反省までするのか……」


 照れなのか本心なのか、未だに分からない。





 翌日、美鈴からボイスメッセージが届いているのに気付いた。無言で音声だけ送りつけられるだなんて経験は初めてだ。おっかなびっくり開いてみる。


『望月くん』


 美鈴の声はいつも通り落ち着いた印象だった。確固とした芯に柔らかいヴェールを纏った、彫刻が微笑みかけるような優しい声色。


『ありがとう』


 それだけ。それだけだが、二人の対話の行方は、十分に伝わった。

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