第10話 二つ目の終幕

「という感じだな。500円でBtF乗れると考えたらお得だったよプラネタリウム。ところによるんだろうけど、おすすめ」


『おすすめ……か。じゃあ私も行ってみるよ。——ちなみに春夏李ちゃんを怒らせたらどうなるの?』


「メンヘラの病みに一晩中付き合わされることになるかな。自己否定の嵐にひたすら謝罪をくり返して気が済むのを待つ。まあ毎日そうと言えばそうだけど、不興を買うと普段の比じゃなくて、端的に言うなら、しんどい。実際のところ昨日もそうなったよ。プラネタリウムの方はバレてなかったっていうのに、新しいピアスホールを空けられたし」


『わあーお、すげーマーキングだなあ……よく付き合ってられるね って書いたけど、付き合ってないんだった』


「この関係をやめたいかというと自分でもよく分からないんだけどな……」


 悩んだ末に、ええいままよと書いてしまう。


「なあ、話は変わるんだが……あとちょっとポエミーなことも書いちゃうんだが……。——月って綺麗だと思うか? ちなみにこれ、別に捻った告白とかじゃなくて真剣な相談だから」

『面白い質問だね。そりゃあ月は綺麗だと思うよ? 世間一般で綺麗なものとして扱われているからね。ただそうだなあ、ポエミーに返すならば——月は心を映す鏡なのかもしれない。あなたの心に太陽があるからこそ、月もまた清らかに輝くのですわ——』





 テスト日程の終わり、人の行き交う廊下で夜のグラウンドを眺めていた美咲に声をかけた。美鈴も一緒だ。藤木先生は席を外している様子。もう送り迎えの車が着くのを待つだけなのだろう。

 春夏李には事情を説明して少し向こうで待ってもらっている。


「何か用?」

「いや、ちゃんと来てて偉いなあってだけだ。な、美鈴」


 美鈴はきょとんとしつつ、上を向く形で、車椅子を押す美咲に振り返った。


「みさきちゃん、偉いね」

「あ……ありがとう、お姉ちゃん」

「で、今後は大丈夫そうなのか?」


 美鈴はばつが悪そうに目を逸らす。


「大丈夫……だと思う」


 安心できる気配ではなかった。それもそうだ。何かが解決された実感はない。


「俺で役に立てるなら、何でも相談してくれ」

「……どうも」


 美咲は不意に電話を取り出して画面を見た。着信のようだ。


「え……あ、どうしよう。いま藤木先生がいないし……」

「電話か? 俺が美鈴を見ていようか?」


 美咲はかなり躊躇したが、しかし鳴り続ける携帯の画面を見て、決心した。


「じゃあごめん、お姉ちゃんをよろしく。——はい、瀬戸見です。はい——」


 美咲は電話に出つつ、廊下を出ると、校舎の陰の方へ折れていった。

 美鈴の車椅子のハンドルを握る。


「何の電話だろうな。美鈴、知ってるか?」

「知らない」

「それもそうか」


 というか、美鈴に聞かせたくない内容だから、そこそこ遠くまで行ったのだろう。


「望月くん」

「ん?」

「私が悪いのかな」


 窓ガラスに映った美鈴の表情は変わらない。声色に機微もほとんど感じない。だというのにその言葉は、どんな絶叫にも勝る、崖っぷちから放たれた悲鳴に聞こえた。


「何のことか分からないけどそんなことは無いと思うぞ。何も悪いことはしてないんだろ?」

「私のせいで——」

「そう、美鈴さんのせい」


 俺に遅れて美鈴も隣を見る。窓際に並んで立つのは前髪の長い陰気な男子。


「あれは職場からの電話。彼女、美咲さん、学校を辞めて社員になるつもりなんだって」

「……なんで、みさきちゃんが?」


 水壺颯兎はつらつらと続ける。


「美鈴さんのことを嫌いになったからだよ。このあいだの大縄で僕たちのクラスの負けを決定的にしたでしょう。あれが決め手。美咲さんは美鈴さんのせいで練習できなかった。だから僕たちは負けたんだ、僕たちはあんなに練習したのにね。美鈴さんが傍にいるから美咲さんはずっと失敗する。美鈴さんのせいで失敗する。美鈴さんの傍にいる限り、美咲さんは周りの人に迷惑をかけてしまう。足を引っ張ってしまう。周りに迷惑をかける人間が嫌われるのは分かるね。美咲さんは、美鈴さんのせいで、周囲の人間に煙たがられ、嫌われる。美鈴さんはその車椅子に守られて誰からも嫌われない中で、美咲さんだけがただただ嫌われ続けることになる。なっている。ただそれは美鈴さんがいるせいで。美鈴さんがこの学校にいるために」


「——やっぱり、私のせいで」


「水壺? 何を言ってる……?」


 まったく何も理解できない状況だった。


「賢い美鈴さんなら分かるはずだ。本当にこの学校を辞めるべき人間が誰なのか。美咲さんではない。美咲さんを貶めている人間こそ居なくなるべきでしょう」


 美鈴の揺るぎない瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。


「ありがとう、水壺くん」

「どういたしまして」


 ——は?


「いやおい——」

「——お姉ちゃん? お姉ちゃん!?」


 慌てた様子で戻ってきた美咲が、美鈴の前で膝を着く。


「どうしたのお姉ちゃん」


 美咲はハンカチを取り出して涙を拭こうとしたが、しかし美鈴は払いのけた。


「触らないで」

「——え?」


 美鈴の表情はずっと変わらない。いつもと同じ調子。声だけが上ずっている。


「わ、私は、一人の人間」


 美咲は怯えたように顔を引きつらせた。


「お、お姉ちゃん?」

「私を、憐れまないで」

「お姉ちゃん? わ、私は、そんな——」


 伸ばされた手をまた払いのける。子どもが駄々をこねるようにして寄せ付けない。


「嫌い。嫌い。嫌い。みさきちゃんなんて嫌い。嫌い……」


 美咲の頬にも涙が伝った。既に廊下は騒然としている。


「私……私は……。——ごめんねみさきちゃん、私なんかがお姉ちゃんで」


 美鈴はおもむろに左腕を持ち上げると、窓に向かって力強く振った。鋭く尖った破裂音が廊下に響く。散らばったガラス片のうち太ももに落ちた大きなものを一つ強く握り、自分の首に向けて——。


「——!!?」

「ッ——!」


 ガラス片は咄嗟に前に出した俺の右腕に深く突き刺さっている。すぐに奪い取って放り投げた。透明な刃が赤い液体を伴って宙を舞う。俺はというと勢いのままに腰を着いてしまった。

 手首の内側を見れば、ギリリと痛む傷口からとくとくと血が溢れ出ている。雰囲気一センチ以上の深さ。


 ——これ、一生残るな。


「倫斗!!?」


 駆けつけた春夏李が血の跡を追って俺の右腕を取った。両袖越しに患部をぎゅっと強く握られる。


「は、春夏李、服が汚れるんじゃないか」

「はあ!? 何を言ってんの!? 倫斗ってバカ!!?」


 なおも自傷しようとする美鈴は周囲の生徒から両腕を抑えられていた。すぐに教師陣がやってきて事態は急速に収束に向かう。水壺はいつの間にか姿を消していた。


 美咲は、ただずっとガラスの散らばる廊下にへたり込んで、涙を流していた。

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