第6話 贖いの言葉
『つまり、君は美咲さんの様子に、青春への諦め、みたいなものを感じ取ったんだね』
「そうなんだ。とはいえ何も確認はしてないけど。というか、美咲は他人から促されない限り美鈴の傍から離れようとしない節があって、その傾向を考えると、矛盾してる」
『青春したいという本音を持っているのに、養護教諭の先生がいる場ですら美鈴さんの傍にいることにこだわっているなら、それは意地というかヤケって感じだね』
もはや落書き帳の体を失い始めた交換日記を前にして腕を組んだ。
そう、意地なのだ。意地というのは通常、張れば張るだけ損なものである。それに気付いてしまった以上、なんらか心を解きほぐすような影響を与えたいとも思う。
『あとごめん、我慢してたんだけどやっぱり聞いていい? 君って彼女いるの!? 隅に置けないね!?』
「まるで彼女かのような人間ならいる。付き合ってはないけど」
『どういうこと!!? いやちょっと事情をお聞かせ願いましょうか私たちの仲でしょう隠し事だなんて野暮で——』
お座り先生こと榎本先生の現代文の時間。
「意味調べのチェックしますよ。じゃあ……園田さんを当てましょう。『肝要』の意味は?」
「ああはい、えーっと、四角くて、甘くて、お茶と一緒にお客さんによく出す——」
「それは羊羹。はい乃木さん、正しい意味を教えてくださいねえ」
「昔やったゲームで怖かった記憶がありますね。金曜日の夜にテレビを調べると——」
「それは森の洋館。あと金曜日は別のイベントですねえ。小泉さんはどうですか?」
「あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ——」
「漱石が羊羹を描いた一節ですねえ。漱石は菓子の中で羊羹が一番好きとまで書いていて——じゃなくて」
次は俺だ。羊羹と言えばとらやだから……。
「そろそろ羊羹から離れましょうか。では望月さん」
——そろそろ羊羹から離れましょうか!?
考えていたボケを土壇場で殺され、マジレスの誹りを甘んじて受け入れるしかないと覚悟した、そのとき。
「失礼します」
ノックの音と担任の椎名先生の声がした。目を上げれば前方のドアから顔を覗かせている。
「すまん、美咲、美鈴が気を失ってしまって、来てくれるか?」
椎名先生の目線を受けた瀬戸見美咲は既に立ち上がっていた。
「はい。行きます」
椎名先生と美咲は現代文の標準クラスを出て行った。行き先は基礎クラスの方だろう。
いま椎名先生が言っていたように、美鈴は予兆なく気絶することが時折あった。どういう病気なのか詳しく聞いたことはない。ただ、車椅子が必要になるほどの身体的障碍、軽微な知的障碍、そしてこの突発性の意識昏倒である。かなりの難病なのだろう。相当のハンデを負っている。
そしてそれは双子の妹である美咲も同様だ。常時複数の養護教諭を擁するこの夜間定時制とはいえ、美咲以上に対応に慣れた人間はいない。ならば頼られるのも仕方ないし、実際のところ本人も家族も、そうなると承知の上でここにきているのだろう。
付きっきりの養護教諭が一人。学校が出来るのはそこまで。これ以上の配慮はできない。どんな背景の人間であっても受け入れる夜間定時制であって、しかしやはり美咲は美鈴を気に掛ける運命を決定付けれられている。
「うーん、じゃあ今日は授業はここまでにしてカルタでもしますか」
榎本先生はプロジェクターがよく見えるよう黒板の脇に座っていたのだが、椅子のキャスターでシャーッと滑っていき、自分のトートバック——榎本先生は教材をトートバックで運ぶタイプだ——の中からカルタを取り出した。悪い顔をして笑う。
「美咲さんには悪いですが、遊んじゃいましょう」
「おっ、悪いですね〜先生!」
「悪いですよ~」
園田がカルタを受け取りに行った。乃木がしゃーなしといった様子で机を動かし始めれば、それぞれ続く。
ガタガタと机が鳴る中、俺に声をかける者がいた。
「羨ましいねー、ね、おだちゃん」
舌たらずで甘えるような声の持ち主は、黒髪セミロングに赤インナーのちっちゃな女子、小泉八千恵(こいずみやちえ)である。首から上だけ見ればロックでパンクなのだが、服装に関してはフリルのブラウスにロングスカートでおしとやかな印象だ。
「おだちゃん」は彼女が俺に着けたあだ名である。
「羨ましい? 何が……どっちが?」
この場で何かに対して「羨ましい」だなんて言った場合、その相手は瀬戸見姉妹のいずれかしか無いと思うのだが、しかし彼女らの境遇は口が裂けても羨ましいだなんて言えるものではないはずだ。
「姉の方。いいよねー何もしなくても愛されて」
「は? 流石にその言い方は——」
ついに机の小島に札が広がって、榎本先生が札を読み上げ始めた。
「かさごの異名。江戸時代に出回ったかさごが不味かったことから転じて、馬鹿者や愚か者を嘲って——」
「『あんぽんたん』! 貰った!!」
一枚目をかすめ取った小泉はカードを指に挟み目元に構え、どやりとポーズを取る。
「どうよおだちゃん、やちと勝負しよーぜい」
「勝負? 何のために?」
「何って? まっ! おだちゃんったら分かってない。——勝負に理由が要るのかよ!! 勝ったら嬉しいだけだ!!」
「なるほど……いいぞ乗った。見せてやるよ、かつて『百人一首の伝道師』と呼ばれた俺が——紙屑の一片も残さずむしり取る様をな!」
最中、俺は水壺にも目をやった。水壺は自分の前にある札を堅実に取るプレイに徹している。つまり、ちゃんと参加している。なんなら園田に「うわー早いなー!」とか言われているときに、ほんの少しだが笑っている気すらした。
——全く社交性が無いわけじゃないんだよな。慣れるのに時間がかかるタイプなだけか?
授業が終わり、ホームルーム教室に戻るところ、小泉がとててと追いついてきた。
「おだちゃーん、置いてかないでよ」
「え、ああ、ごめん? 何か?」
「いや! あれだけ惨敗しておいて何も言わずに帰るなんてないよ!」
「まあ……勝ち誇られるのは嫌だからな」
「ザコのクセにプライドは高い!?」
「女には男の意地が分からんか」
「男女観が昭和!?」
「ああごめんBeReal来ちゃったから、その話後でいい?」
「場の逃れ方は令和!!」
「これは一体なんと読むんでござるか? ベ……ベリアル?」
「蘭語読み!? 江戸時代か! もうええわ!」
想定していたツッコミは悪魔に絡めた方向性だったのだが、思っていたよりも賢い感じのツッコミが来た。オランダ語だとそうなのか、普通に勉強になる。
というかなんだか意外とボケに付き合ってくれたな。嬉しい、小泉は良いやつかもしれない。
「ほら、やちの勝ちだったんだから、言うことを一つ聞いてもらわなくちゃ」
「えっそんな話だったか? え、え? いや、え?」
「まあまあ冗談がてらと思って聞いてくれればいいから」
小泉は俺の隣を歩きながら、覗くように首を傾けつつ、にやりと笑ってこう提案した。
「今度、やちとデートしてよ」
一方的にデートの約束を取り付けてきた小泉は返事を待たずキャハハと走っていってしまった。
その日は体育祭前最後の大縄の練習だったが、美咲と美鈴は気絶の件から途中で帰ったようで、姿を見せなかった。
「なあ、望月」
更衣室から少し離れたところで春夏李を待っていると、乃木理央に声をかけられた。プリンのような髪色にしたいようで、金髪は頭頂部当たりだけ黒い。ウルフカットでガオーって感じ。ウエストで切ったカットソーにショートパンツ。スニーカーはスポーティーなもの。
「乃木? 何か? 春夏李がどうかした?」
「いやアレは関係ねえんだけど話あって、ちょっと、来い」
乃木に連れられ校舎裏まで出てきた。フェンスに囲まれた室外機がカラカラと鳴っている。足元に吸い殻が落ちていた。上級生のものだろうか——。
「なあ」
角を曲がった瞬間に突然、追い込まれる形で壁ドンを喰らった。顔色も見えない暗闇というシチュエーションもあり、思い切り心臓が跳ねた。キュンとしたとかではなく、ただただビビって。
遅れて春夏李の「こんなに暗いとなにがあってもおかしくない」という言葉が思い浮かぶ。
——えっじゃあ俺襲われる? まじか。
「なあ、高濱が辞めた理由、椎名からなんか聞いてねえか」
「た、高濱?」
流石に妄想のし過ぎだったようだ。本題は高濱のことらしい。
乃木は周りに目を回しながら、声を小さくする。
「アタシはアイツには確かに迷惑してたけど、とはいえあんなに懐かれて何の情も湧かないわけじゃあない」
「それは、まあ。だからこそ高濱の心配をしてたわけだもんな」
「それが突然なんも言わずに辞めてったんだ。流石に気になる。というかそれで、アイツが辞める前、中間テストを受けに来なかったあの日、アタシはアイツに会いに行ったんだよ。アイツが働いてるっていう工事現場に、飲み物一本差し入れってな」
「なるほど? それで、高濱から直接辞めるって聞いたのか」
「そうだ。けど理由が引っかかる。『アタシやクラスのみんなに迷惑をかけるのは申し訳ない』ってんだよ」
「高濱がそう言ったのか?」
「おかしいよな、アイツは相当に察しの悪いやつで、自分が他の人間に迷惑をかけてるだなんて気付いてなかったはずだ。もしくは、意識してなかったはずだ。そんな奴にそれほどの罪の意識を植え付けさせるには、かなり露骨に直接、悪意を持って言わなくちゃあいけない。しかもその事実を伝えるだけじゃなくてさ——『アタシの悪意』をもって言わなくちゃあ、聞く耳なんて持たないはずなんだよ」
俺は椎名先生から聞いた水壺の件を思い出した。乃木の今の話聞くに、高濱は乃木に対して水壺の名前は出さなかったようだ。しかしその内容までは伝えた。となると乃木には一つの疑問が浮かんでいるはずだ。
「誰かが。誰かがアタシの言葉を悪意をもって切り取って、高濱に伝えた。そうに違いない。なんなら録音とかしてたんじゃねえかと思ってる。となるとやっぱ、犯人は現国の標準クラスにいる人間だ。アタシと園田が高濱について話してたのはあの時だからな」
「まあ経緯は分かった。それで、なんで俺がそのヒントを持っていると?」
「理由はいくつかあるが、最近望月が椎名と仲良しだからだな。あとなんか、最近の望月の様子がちょっぴり変わった気がして。つまりカンだ」
「理解した」
中々に良い嗅覚をお持ちだと褒めたいところだが、椎名先生には「他言無用」と言われている。とはいえ乃木の感情も理解できる。
「確かにその件については知ってるけど、乃木には言えない。悪い」
となるとこれが最低限の誠意だ。
「そうか」
乃木は俺を壁際から解放して、ふーっと息をついた。
「サンキューな」
「感謝をもらうには非協力的だった気がするな」
「いや、いい。自分で探る」
「乃木は……その誰かを特定したら、どうするつもりなんだ?」
乃木は、あくまで冗談といった調子で軽くこう言った。
「ケジメでもつけさせてやろうかな」
本気の表情をしていたかどうかまでは見えなかった。
「ああそうだ、話は変わるが、望月。一つ忠告しとく」
「ん?」
「アタシですら気付いてんだ。お前のこの頃の様子がちょっと変わったってな。具体的には、上の空なことが増えた」
「それは——」
「それは別に女関係じゃなく、椎名となんか話したりした結果なのかもしれねえ。でもな、多分それ、炉端に言ってないだろ。じゃあどんな邪知をされたっておかしくねえ。アレのストレスは手首の傷に直結するぞ。これ以上見苦しくなられちゃたまらん。というか気付いてると思うが、明らかに傷の増えるペースが上がってるだろ」
「それは、確かに。でも——」
そもそも俺と春夏李は付き合っていない——というのはみんなには秘密である。春夏李はそう望んでいる。
とはいえ俺が春夏李のストレス源なのは紛れもない事実だ。恋愛感情があるかどうかは定かでないが、事実として春夏李は俺という人間にかなり執着している。
「四月、お前らに何があって、なんで今こんなに懐かれてるのかは知らんけどさ」
乃木は俺の胸元に指を立てた。
「アレを救えるのはお前だけだよ」
——春夏李を、救う。
「今さら逃げられない。アレが最悪の結末を迎えたとき、お前はいくら自分に言い訳をしようが罪悪感から逃れられなくなる。どうしようもなかっただとか、学生の手には余るだとか、そういうのは結局納得できない。触れてしまったなら、同情してしまったなら、それがアタシたちの最後だったんだ。なかったことにはできない。その末路はアタシたちの一部と化して、いつまでも黒く長い尾を引くことになる。ふとしたときに『今頃アイツは』って想像する人生を送ることになる」
「乃木……」
「アタシに出来ることがあったら何でも言えよ。まあ、無いと思うけどな」
乃木の去り際の声は——絞り出されたような言葉は。彼女が救えなかった誰かへ向けられた贖いの言葉だった。
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