二章 潮汐ロック

第5話 二人で一人

 一週間に四時間×五日しかない貴重な授業時間の一つを割かれているのがホームルームだ。担任の椎名先生が事務連絡を続けている。


「そういや来週はもう体育祭だが、お前ら大縄大丈夫なのか?」


 比較的に表情筋が機能している方の者たちは、みな微妙な顔をした。乃木理央(のぎりお)がやれやれと肩をすくめている。


「ダメダメっすね」

「いやーダメダメってほどじゃないけどなあー!?」とクラスのみんなにフォローを入れたのが園田ダイヤ(そのだだいや)。

「そうか。じゃあ……望月(もちづき)の目から見たらどうだ?」


 なぜ俺が指定されるのかと疑問に思いつつ「まあ、ダメダメです」と正直に答えた。園田が大振りな仕草で嘆く。


「そんな言うなよ倫斗(りんど)っちぃー!」

「場合によっては練習してもいいかもな。よし! じゃあ今日のホームルームはこれにて終わりにしよう。後の時間は練習に使ってくれ。できるだけ残ってくれたら園田が嬉しい」

「いや嬉しいけどなんでオレ!?」


 先生と園田がまばらな笑いを取りつつ四時間目は二十分を残して終わった。それぞれ帰り支度をしたり大縄に向けて園田周りの動向を観察したりしている。


「よっ」


 いつも通り炉端春夏李(ろばたはかり)が俺の肩を叩く。


「どうするんだい?」

「どうもなにも。どうせ部活に行くまで暇だしな、参加する」


 春夏李は自分の格好を見下ろした。艶感のモノトーンにチェーンのきらめくザ・地雷系。


「そっか。じゃあジャージに着替えてこなくちゃあいけないな」


 チャリチャリと音を鳴らして手を振る春夏李を見送り、次に俺が視線を送ったのは、比較的に表情筋が死んでいる方の生徒の一人、水壺颯兎(みずつぼはやと)である。荷物をまとめているところ。

 椎名先生の依頼を——水壺颯兎が高濱(たかはま)を辞めさせた動機を探れという依頼を——完遂するには、彼と関係を作る必要がある。

 水壺は細めの男子で身長は平均やや下くらい。無造作に伸ばした黒髪が瞳の大きな目にかかる。口は固く結ばれて陰鬱な雰囲気。この頃は半袖のパーカーをよく着ていた。


「水壺はどうする?」


 おもむろにといった風に声をかける。水壺は鞄の中に顔を向けたまま、目だけをチラリとこちらにやり(おそらくそうしたと思う。いかんせん目元があまり見えないので定かではない)、ぼそりと小さく呟いた。


「行くけど」

「そうか! じゃあ一緒に——」


 水壺は俺の言葉を待たずにサッと教室を出ていった。さざなみが引いていくかのような、有無を言わせぬ消失劇である。俺には彼が出て行った方向を見つめることしかできなかった。


「手強いな……」





『うつ病にはアネドニアと呼ばれる無感動の感情が含まれることがあります。アネドニアは、通常楽しみや喜びを感じることができる活動や経験に対する興味や喜びを失う状態を指します。自然や景色、趣味などに対して無関心になることもこの症状の一部です。……』


「倫斗、お待たせ」


 見ていたページのタブを素早く飛ばして携帯を閉じる。


「今来たところだ」

「違う違う。え? それは着替えるのを待ってたときにいうセリフじゃあないんだよ。どこ行ってたってんだよ。ご機嫌取りが適当すぎるよ」

「適当すぎたか、ごめん」

「ご機嫌取りだったことの方を否定してくれるかな!?」


 上下ジャージの春夏李と合流して、右手に校舎、左手にテニスコートを見つつグラウンドへ向かう。テニスコートはあるがテニス部は無い。野球部も無いから、夜にやるには音が出すぎるみたいな事情があるのだろうか。実際のところ通信制と定時制の全国大会に硬式テニスと硬式野球は無い。でも軽音部は割とどこの夜間にもある。こっちの方がよっぽど騒音だと思うものの、しかし吹奏楽をやりたかった人間を受け入れるために存在を許されているという面があるのかもしれない。


 もう九時過ぎなので六月後半とはいえ完全に陽は落ちていた。今自分たちが歩いているような建物裏のちょっとした通路には灯りがないので、グランドまでの道のりは真っ暗だ。


 春夏李が腰に手を回してくる。怪訝に睨めば返ってくるのは試すような笑み。


「なんなんだよこんなところで」

「こんなに暗くちゃあ誰が何やっててもバレないなって思ってね」

「屋外でか? 流石に今は蚊が多すぎるな」

「この季節じゃなければヤりたいってこと!? おいおい倫斗くんったら変態だねえ!」

「死ね」

「やーいやーい、罵倒の語彙が、小、学、生!」

「へーんだ! お前の煽り方の方が小学生じゃねえか」

「何がへーんだよガキかよ。あーあ幻滅した。カエル化だ。ほらゲコゲコ鳴いてみな!」

「下戸なのは春夏李の方だろ」

「やめよう倫斗、学校の敷地内でそんな危ういことを言うのは」

「ブーメラン刺さって死ね」


 一応のところ釈明しておくが、罵倒の語彙が強いのは定時制あるあるである。「死ね」くらいはお許しいただきたい。「いてこます」まで出てきてから叱ってほしい。

 校舎の外縁を折れれば、夜闇を突き破る大きな照明が高い位置からグラウンド全体を眩しく照らしていた。先に来ていた者たちが既に練習を始めている。俺と春夏李が遅れた形。ちょうど今、十人くらいがピョンピョンと跳ねている。


「十二、十三、十四……」


 カウントの声は俺でも春夏李でもない。はたしてグラウンドの端、俺たちの隣には三人の人間がいた。

 一人は養護教諭の藤木先生。四十くらいの叔母さんなのだが意外にノリがよくて、俺たちのクラスにかなり馴染んでいる。なんなら馴染んでいない方の者たちより馴染んでいる。

 その傍にいるのが瀬戸見(せとみ)姉妹である。


 妹の方が瀬戸見美咲(せとみみさき)。黒髪のロングヘアを後ろにまとめた、どこか疲れた雰囲気を纏う、じめったした目線をした女子だ。実用性重視のカジュアルな格好でいることが多い。実際今もTシャツとジーンズだ。背が160後半あるのも理由だろうか、妙にしなびた雰囲気から、お姉さんっぽいというか、疲れたOLのように見える。イヤリング派。


 姉の方が瀬戸見美鈴(せとみみすず)。黒髪のショート。妹のそれより手入れがされているようで艶がある。いつも白いパーカーを着ていて、妹より背がかなり低い。はずだ。いかんせん車椅子から立っているところを見たことがないので、おそらく。


「二十、二十一……あっ、乃木さん。二回目」


 数字の声の主は姉の美鈴だった。車椅子の手すりをじっと握り、大縄の方を見つめて、またカウントを始める。彼女の眼には、世間一般の人々のそれよりも、やや尖った好奇心と集中力が顕れている。それは一目瞭然なものだった。車椅子に乗っていなかったとしても、彼女が「普通」から多少ズレていることは、誰が見ても一瞬で分かるものだった。


 妹の方に声をかける。


「美咲は行かないのか?」


 美咲の死んだ魚みたいな目がこちらに向けられた。美鈴の車椅子のハンドルを握ったまま。


「私はいいよ」

「美鈴ちゃんは私が見とくわよ?」と声をかけたのは養護教諭の藤木先生。

「……じゃあ分かりました。行ってくるねお姉ちゃん」

「六、七、八……」


 美鈴は返事をせず数字を唱え続けていた。美咲は意にも介さず、俺たちを誘ってグラウンドの中央に向かって歩き出す。


「それにしても、望月と炉端は本当にラブラブだね。さっきもイチャイチャしてたしさ」

「うそ、聞こえてたの!? ヤバい会話してたよね倫斗、ね、ヤバイ風潮が広がっちゃうんじゃあないかい? キミが青姦好きのヤバイ変態だってさああ!!」

「その話はお前から振ったんだったよな!?」

「あ、お前って呼んだ!! それは止めてって言ったよね!!?」

「あ、ごめん、春夏李ね。じゃあやり直すか。春夏李から誘ったんだったよな!?」

「チッ、誤魔化しきれないか。しつこい男は嫌われるよ!?」

「その常套句を聞くのも何回目か分かんないなあ!」


 美咲は困惑した様子。


「い、いや、そこまでは聞こえてなかったけど。腕を組んで現れたからさ。そのことだけ。てかそんな話をしてたの? 思ったより進んでるんだね世の男女は……」

「まあボクと倫斗に関しては進んでるね!」

「要らんことを言うな」


 軽く叩けば「いてっ」とわざとらしく痛がって見せる。


「はは、憧れるな、青春」


 美咲の乾いた笑いと、ちらりと美鈴に振り返るその目線。そこに滲み出たタールのように感情も、一目瞭然のものだった。

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