第4話 庭師 / 道化師 / ゾンビ

 いつも通り教室に一番乗りすると、担任の椎名(しいな)先生が教室中央の机に腰掛けていた。まるで人を待っていたかのように。とはいえ誰を待っていたかは明白だ。


「おお、望月(もちづき)、待ってたぞ」

「何か用ですか?」


 椎名先生は、ややくたびれた雰囲気を纏った、中年手前の男性である。社会科。髪は短めでセットをしていないことが多い。緑寄りベージュのチノパンに黒いポロシャツで軽い印象。腕時計はフォーマルなシルエットだが、時計盤がエメラルドに煌めいてちょっと派手だ。


「まあなんだ、ちょっと腰掛けてくれ」


 指し示されたのは向かいの机である。先生に白い目を向ける。


「机に座っちゃあいけないでしょう」


 対して先生はにやりと口角を上げた。


「腰掛けるだけだ」

「『腰掛ける』と『座る』は違う動作なんですか?」

「違う文字列ではある。そして『机に腰掛けてはいけない』だなんて言い回しはあまりしないな」


 呆れて座れば、先生は背中を曲げてまるで陰口でも叩くかのように声を小さくした。


「水壺颯兎(みずつぼはやと)のことだ」

「水壺?」

「ああ、水壺について、少し聞きたい」


 水壺というのはクラスメイトの男子の名前だ。


「水壺のことなんて、あまり知りませんよ。私的な会話を交わしたことなんて皆無ですし」


 水壺は寡黙な人間で、クラスの人間とコミュニケーションをほとんど行っていなかった。話しかければ最低限の返事はあるが、それ以上続けようとはしてこない。あまり人と話したくないタイプなのだろうと、みな早々に判断し、積極的に働きかけることはなくなっていた。


「じゃあ望月以外の誰かと仲良くしている様子はあるか?」

「たまに園田たちに誘われて遊びに着いていっているようですが……あれは誰にでも声をかけていますからね。仲良しと言えるかは」

「高濱とはどうだ? 逆に、仲良くなかった、とかでもいい」

「高濱? いや、高濱だなんてそれこそありえません。高濱は乃木以外のほとんどの人間とコミュニケーションを取っていなかったし、水壺ならなおさらです。二人がどうかしたんですか?」

「いや……そうだな。これは他言無用だが」


 先生はしれっと「他言無用」だなんて枕詞を使った。聞かない権利を行使する間もなく。


「高濱は学校を辞める」


 それ自体はあまり驚くことではなかったものの。


「高濱本人が言うに、水壺とのSNSでのやり取りが原因だそうだ」


 そちらは寝耳に水だった。


「それは……意外ですね。あの二人に関係があっただなんて」


 クラスグループから連絡を取ること自体は容易とはいえ、やはり人間としての性質が違い過ぎて、どんな会話が行われたのか想像が付かない。


「高濱曰く、こういう風に言われたそうだ」

「辞めろって?」

「『園田(そのだ)や乃木(のぎ)を始めとしたクラスメイトはお前に迷惑しているから、態度を改めるか、できないなら辞めるべきだ』」

「……え?」


 想像通りの内容ではあるが、引き合いに出ている名前がおかしい。


「な、なんで園田と乃木の名前が出るんですか」

「それはオレも聞きたい」

「繰り返しになりますが、水壺は——」

「オレが気になるのは、これが『善意』か『悪意』かってことだ。あるいは『公益』か『私欲』か。それ次第でオレは今後の水壺という生徒との接し方を変えなきゃならん」


 ——善意に、悪意?


「重ねて言うが、これは他言無用で頼む。他人になよ。そして、水壺がなぜそんなことをしたのか、アタリをつけてくれ」

「どうして俺なんですか?」


 椎名先生は去り際、俺の肩にポンと軽く手を置いた。


「協力しといた方がいいぞ。お前はオレに借りがあるからな」


 「借り」が何のことか思い当たりはしなかったが、しかし実際のところ気にはなった。


「水壺、か」


 水壺の主張自体は大きく間違っていない。彼の言うように解釈できる状況ではあっただろう——事実として、高濱のせいで乃木は迷惑を被っていたのだ。ただなぜその指摘が当人たちと全く関係のない水壺という人間から出たのか。





『そうか、高濱くんは来なくなっちゃったのか。残念だね』

「でも件の水壺ってやつは平然と出席してるよ」


 他言無用とは言われたが他書無用とは言われていないので、俺は高濱退学の経緯を平然とノートに書いた。そういう屁理屈をこねていたのは椎名先生の方なので、もしバレることがあったとしてもきっと許してくれるだろう。


『なら水壺くんは特に気負ってはいないわけだ。若者一人から高卒の機会を奪っておいて』


 ——高卒の機会を奪った? ああ、そうか……だから「悪意」だなんて言葉が出るのか。


「なんというか、君の指摘にはいつも気付きがあるよ。賢いんだろうな」

『もちろん私は賢いけど——』


 ——自己肯定感高いタイプなんだな……。


『なかなかどうして君も聡い。いつか君の哲学を聞ける機会があると嬉しいな』


 ——哲学……?


 疑念を先回りする形で、追記がある。


『人の過去は聞き出すものではなく理解するものだから。それが哲学を聞くってことだよ』




 ——ちょっと難しい話をされてるな……。


 ともかく、ノートの向こうの「彼女」が意図するのはこういうことだ。つまり水壺の動機は——「自分は傷付かない」から。傷つくのを恐れて不遇を被らざるを得ない人間がいるならば、傷つかない自分が言ってやろう、という。

 だとしたらそれは善意だが。


「いや、まあ——」


 密かに高濱をウザいと思っていて、辞めさせる機会を伺っていた、くらいの方がよっぽど現実的だ。これほどに強固でシンプルな動機を覆すにはまだ情報が足りない。


「直接水壺と話さないとな」


 ぶつぶつ呟きながら、まだ西日の眩しい授業開始前の校舎内をぶらついていたところ、階段の下方から声の気配を感じた。遠くの小さな音だが、その息の荒れた調子は泣き声のそれである。

 足を伸ばしてみれば、廊下の向こう、校長室から二人の先生が出てきたところだった。一人は教頭先生。もう一人は理科の亜港(あこう)先生。


「うっ、うっ……」

「亜港先生、大丈夫です落ち着いてください」


 泣いていたのは亜港先生だ、ひっくひっくと涙を拭っている。二人はこちらに来る様子だったので、慌てて踊り場に上がり、こっそりと見下ろした。亜港先生は近くの会議室に入って落ち着くように促されていた。

 教頭先生が会議室の扉を閉めるのを見計らって声をかける。


「教頭先生」

「おっ……や。こんにちは、どうかしましたか?」

「何かあったんですか?」

「ああ、その、それは——」


 言い淀む教頭先生を遮ったのは怒声。


「もういいです!!」


 怒り心頭といった様子で校長室から出てきたのは一人の女性だ。四十歳くらいだろうか。きっちりしたスーツが様になっている。襟にはSDGsのピンバッヂ。


「はあ。もう、埒が明かない」


 ——あれは。


 そしてその隣には、小泉八千恵(こいずみやちえ)の姿があった。肩を縮めて俯いている。

 追って出てきたのが校長先生と我らが担任、椎名先生である。二人とも平に頭を下げている。


「この度は、本当に申し訳ありませんでした」

「いい加減にしてくださいよ。私きょう仕事早退したんですよ!?」

「それはもう、本当に……」

「チッ、これだから世間知らずの教職は。常識が無いから人の子をあだ名で呼ぶだなんてことができるんですよ」


 女性は呆れた様子でため息をつく。


「二度とこんなことがないようにしてください。次は夫に相談して弁護士を連れてきます」


 最後に「ほら今日は帰るわよ」と、小泉に声をかけた。小泉はしょぼんと申し訳なさそうな態度で、女性の後ろに着いてこちらに向かってくる。

 俺の隣で教頭先生は頭を下げた。女性はふんと鼻を鳴らして通り過ぎていき、小泉がその後に着いていく。

 先生たちはみんな頭を下げていた。だからその表情はきっと俺にしか見えていなかった。小泉を先導するこの女性にも見えていなかった。


 一瞬だけ浮かんだ小泉の表情を。

 その目元を、口元を。


 ——え。


 見間違いかと小泉の背中を見るが、彼女の背中はやはりいつもより小さく見えた。申し訳なさそうに、まるで自分にも否があるかのよう、そんな姿勢に見えたのだ。なのに。


 ——笑ってた。


 小泉の口角は僅かに、しかし確かに、上がっていた。





「よっ」


 放課後、俺の肩を軽く叩くのは炉端春夏李(ろばたはかり)である。


「部活行くかい?」

「……いや、今日は帰ることにするよ」

「ん? おっけい、じゃあ帰ろうか」


 春夏李と共に昇降口に下りる。昇降口とは言っても小さなロッカーが通路の両面に並んでいるだけのものだ。全日制のような大きなものではない。四学年二組ずつしかいない俺達の靴の収容には、出入り口近くの一角のみで十分なのである。

 春夏李に手を取られる。授業が終わってすぐだというのに、帰路につく人間はあまりいなかった。休み時間が五分×三回しかない以上、みな話し足りず、部活が無い者でも多少は残ることが多いのだ。


「さて、じゃあどうしようか」

「なにが?」

「この後だよ!」

「え、まっすぐ帰るけど」

「ええ!?」


 炉端春夏李。ゴスロリのワンピースに身を包んだ女子。ニーソに厚底のパンプス。ロングの銀髪から垣間見える耳のピアスは「厳つい」なんて言葉が安く思えるくらいにギラついている。まつ毛、カラコン、涙ぶくろ、何から何まで完璧。メイクの技術において同年代で抜きん出た実力がある。

 メイクは上手いのに絵は下手。


「そんな! ボクと二人きりで遊んで帰るために早上がりしたんじゃないのかい!?」

「今日は違うな〜」

「そんな、酷いよ。病んじゃうよ、しくしく」


 春夏李はわざとらしいジェスチャーで泣き真似をする。


「……なあ、春夏李」

「なんだようぼかぁ泣いてんだよいま」

「これを確認するのは何度目になるか分からないけど」


 春夏李は改めて俺の右手を握った。指を絡めた恋人繋ぎ。

 真っ直ぐな、湖面のように透き通る水色の視線に。


「なんだい?」


 文句を封殺せんと射る身勝手な視線に臆すことなく。


「俺たちは付き合ってなんてないよな」

「……」


 ポケットを叩けばビスケットではなく睡眠薬が割れる。左手首にはミキサーに突っ込んだような夥しい自傷痕。


「だからなんだい? 嫌になった?」


 炉端春夏李。


「ボクは構わないよ。とはいえボクが学校を辞めて人生を転落しちゃあ、キミの寝覚めは悪いだろうね」


 迂闊に触れた俺に棘を絡めた、恋人然として振る舞う何者か。


「……いや。悪かった」

「それでいいのさ!」


 春夏李は大振りな仕草でくるりと回ってみせる。


「下手なことを言うもんじゃあないぜ倫斗(りんど)くん。お互いのために」


 赤信号を背景にステップを踏む彼女は、間違いなく可愛く、残酷なまでに魅力的だった。それは淘汰の後に遺された、摩耗によって無駄な部分を削ぎ落とした、指に嵌める宝石のようなものだ。しかし彼女は当然、装飾品ではない。一方的なはけ口でも糸に繋がれた人形でもない。人間だ。だというのに彼女は削り整えられてしまった。まるで簡単に消費される嗜好品のように。


「ボクはこれで満足してる。キミはボクを好きにできる。ほら今日も上書きしてくれるんだろ? ボクの血肉をバラ色に変えてくれよ。そうしよう、そうして今のを無かったことにしよう。素直にボクを享受したまえ、御奉仕させてくれよ。だって倫斗も……どうせ、男なんだからさ?」


 極寒の薄氷に踊るバレリーナ。差し伸べられた手すら水底に引きずり込む人魚。

 救われようとしない、救われる自分を想像できない、ヒビだらけのお姫様。


 ——ああ。


 昼と夜は交わらない。交わってはいけない。


 ——それはきっと正しいんだろう。


 俺はもう一度だけ謝り、再び春夏李と並んだ。お互いもうあまり喋らなかった。

 道を折れるとふと、夜空に一人浮かび上がる月が目に留まった。満月手前で輪郭は鮮明。駅前は星の隠れる明るさなので独壇場だ。紛うことなき美しい月。

 手を解いて緩く指差す。


「なあ春夏李」

「ん?」

「ほら、月」

「月がなに?」

「綺麗だと思って」

「綺麗? そうかなあ。街灯の方が明るいし大きいけど」

「——」


 何か言おうとしたそのとき、ぐしゃりと何かを踏みつけた。何かと思って見下ろせば、黒い虫が潰されている。


「ん? わ、ゴキブリじゃないか。うわーやだね、汚い」

「……そうだな」


 縁石に靴の裏を擦りつければ、黒いシミが尾を引くようにこべりついた。





   一章「月とゴキブリ」 ここまで。

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