第2話 ここですら

 21:15。四時間目が終わった。スマホを取り出せば、黒い画面に自分の顔が映る。


 少し日に焼けた肌は現場仕事のせいだろう。そのおかげもあって身体には多少筋肉がついている。Tシャツにジーパンが鉄板の格好だ。乾かすのが面倒なので髪は短め。染めてもいない。自分でこんなことも言うのはアレかもしれないが、中々の好青年に見える。実は中学の頃だと丸いシルエットで黒色ばかり着る「ジ・エンド・オブ・陰キャ」という感じのビジュアルだったのだが、色々あって今はこんな感じだ。

 ピアスホールは人に空けられたたものが左右に一つずつ。とはいえ維持しようともしていないので、もう塞がりそうなところ。


 部活に行こうかどうかと考えていた折に——。


「りんど、なあ、りんどっち」


 声をかけられた。


 俺の名前の「望月(もちづき)」じゃない方、「倫斗(りんど)」を呼んだ彼は、その名を園田ダイヤ(そのだだいや)という。茶髪にパーマ、軽いシャツ、ピアスは両耳に一つずつ。平成の匂いがするチャラ男である。夜間定時制にあるまじきノリの良さとフットワークの軽さで、瞬く間にクラスの人間関係の中心に立った。


「ん、どうかしたか?」

「明日カラオケ行かね?」


 園田の傍には國分(こくぶ)や乃木(のぎ)などの、クラスでも活発な方のメンバーがいる。


「いや、明日はやめとくよ」

「そ? 仕事?」

「いや……なんとなく」


 理由を濁したのは、それが彼らには言いづらいことだったからだ——つまり「俺の落書き帳にメッセージを残した誰かのことが気になっていてそれどころではなかった」。こんなことを口にしては、どこかから教師陣に漏れてしまいそうな気がした。漏れてしまっては、もう彼女(リクエストと文字を見るにおそらく「彼女」)とのやり取りは途切れることになるだろう。基本的に、昼と夜は交わることは推奨されていないのだから。


 そうと考えると、俺は「彼女」との文字と絵のやり取りをしばらく続ける予感があって、それをしてみたいと思っている……ということになるか。それもまあ当然と言えば当然ではないか? なにせすぐ隣にあってしかしカーテンをかけられた向こう側の人間だ。人間たるもの隠されていたら覗いてみたくなるものなのである。


「そっかおーけい」


 園田はサッと踵を返して他の生徒に声をかけにいく。


「……」


 今の園田は、まるで何かを察した風にさらりと去っていった。とはいえ本当に俺の内心を読んだわけではない。察した「風」だ。

 この学校には今の園田のように敏感な学生が一定数いる。つまり、踏み込んでこない。彼らは「話したくない雰囲気」を察知するのが異様に早く、すぐに距離を置いてくれる。

 それは、自分にも話したくないことがあるからなのかもしれない。


「よっ」


 俺の肩をポンと叩いたのが炉端春夏李(ろばたはかり)。


「部活行くかい?」

「ああ、行こうか」





「——みたいな、距離を置いてくれるところがあるよ。こっちの生徒には」

『距離を置いてくれる? 置いてしまう、の方が正しくない?』

「置いてしまう?」

『だって、それは、相手を知る機会を逃してるわけじゃん。あ、次のリクエストは→」


 数日後、生物基礎の授業中、俺は落書き帳を前にして唸った。目の前のノートには昼の「彼女」とのやり取りがある。昼の話を聞かせてほしいと言えば向こうも夜のことが気になると言うので、とりあえずこういったやりとりが行われるに至った。


 曰く——この我々を取り巻いている環境は、昼を生きる彼女からすると、多少不思議なものに映ったらしい。


 ——なるほど。ここでは「距離を置く」ことが美徳だけれど、昼はそうとも限らないのか。

 心の内を聞き出せば確かに相手に対する理解は深まるだろう。相手を理解することが両者の仲を深める上で重要なファクターであることは分かる。しかしその過程にある「聞き出す」というステップを経ると、ふつう相手に嫌われてしまうものなのではないか? ならばトントン……というか、多くの場合で関係値はマイナス側に偏ってしまう気がするが。


『ドサッ!!』


 目の前の席に荷物が雑に置かれた。ちなみに俺の席は廊下際の前から三列目。


 ——珍しい。


「いやー今日は疲れたわ!! なあ理央!!」

「なんだようっさいな」


 左斜め前方の乃木理央(のぎりお)が毒舌を飛ばした相手こそ、直前の音の発生源、高濱陸(たかはまりく)である。

 高濱はガタイのいいヤンキー風な男子だ。ピアスは軟骨にも空いている。

 高濱はあまり授業に出てこない。今登校してきたところらしいが、そもそも今は既に三時間目の残り十五分だ。今時限はもはや出席扱いにならないので彼は四時間目だけ受けに来たわけである。こういう仕草の人間は多いと言えば多いが、高濱はそもそも学校に来ることが稀であることを考えると、やはり彼の単位の危機は他の人間の比ではないだろう。


「後輩が腹壊して抜けやがってさ! 工期遅れてんのによお!!」

「へー先輩は大変だな」

「あ、あの」


 最後の発言はやたらに声が大きい高濱でも棒読みの乃木でもない。生物基礎の先生——おそらく初任の——亜港(あこう)先生だ。おどおどとした小動物みたいな雰囲気の女性。キュートな見た目なのに、カエルの解剖の話になると超早口になるというギャップから人気を確固たるものにした。

 その先生が、授業を止めてその目を高濱に向けている。


「授業中だから、静かにしてね」

「しかも苦情のババアが煩くてさあ!」


 亜港先生は確かに多くの生徒に人気だが、高濱は例外だ。そもそもお互いの顔を見たことが一、二回しかないはずである。


「っ、高濱くん」

「もうキレそうだわ!」


 壁を背にして横に向いた高濱は、徹底して亜港先生を無視している。対して亜港先生は意を決して教壇を下りた。つたつたと歩き、高濱の前で膝を曲げて、無理やり目を合わせる。


「ねえ高濱くん、前向いて授業、受けよう」


 二人の視界には間違いなくお互いの目が映っていたが、しかし「目が合っていた」かというと違った気がした。高濱はやはり亜港先生のことを見ていないように思える。

 高濱はずっと姿勢も視線も変えないまま、しかし返事だけはした。


「なあ、いんだよ先生、別に俺この授業もう単位ねえんだから、な?」

「だからなに? 他の人の授業の邪魔になってるんだよ?」

「じゃあほら授業進めたれ」


 引かない高濱を亜港先生がじりりと睨むところ、口を挟んだのは乃木理央である。


「先生」


 乃木は園田とよくつるんでいる女子だ。髪はかなり抜いている金髪。一見するとピアスをしていないのだが、口を開くとなんとスクランパーが——八重歯の位置に牙のピアスが覗く。不愛想で怖い印象だがいいやつだ。スマートウォッチの外縁をキラキラのスパンコールで囲っているのがチャームポイント。シール帳を持ち歩き、シール交換の機会を伺っているという噂がある。


「コイツはアタシが見とくから戻っていいすよ」

「えっ……の、乃木さん?」

「後で椎名にチクりゃあいいんで」


 たしなめられる形になってしまい、亜港先生は困ってしまった。


「う……せめて、声は小さくして、ね?」

「うっせんだよ高濱てめえ。もっと小せえ声で喋れねえの?」


 乃木が繰り返し同じ内容を言って、やっと、高濱は肩をすくめて鼻で笑った。


「はーいはいはい分かった分かった」


 亜港先生は狼狽えたままで黒板に戻っていった。ここで意地を張らないのは若いとはいえ状況が見えているだろう。実際のところ亜港先生が高濱の対処に当たっても埒はあかない。そしてこの教室の他の十数人は現在、手持ち無沙汰になっていた。


 乃木一人差し出せば授業は進む。


 授業時間中、俺の目の前で高濱は乃木に喋り倒していた。乃木は前を向いて手を動かしていたが、高濱に対する相槌は欠かさなかった。しかも結構会話は成立している。ではノートの方はというと——当然、あまり進んでいないようだった。





 その日の深夜、クラスグループにて園田が「今日のノートを見せてくれ~」とねだっていた。自分が率先してノートを撮り、グループに上げておいた。





『そんな子、親呼んで一緒に面談するとかしないの? もしくは停学させちゃうとかさ』

「学校が呼んで親が来るならそれでいいけど。停学に関しては、この程度で停学を言い渡してたら通う生徒はすぐゼロ人になる。先生たちからしたら、俺たちが無事に高校を卒業することが目的なんだから、それは避けたいはずだ」

『なるほど。こっちでは『義務教育じゃないんだからやる気ないなら帰れ』なんだけど。逆だ』

「ここですら邪魔者扱いで摘み出されたら——」


 そこまで書いてふと手が止まった。


 ここですら。高濱はこの夜間定時制ですら邪魔者扱いだ。多くの生徒と、そしてもしかしたら一部の先生に、いなくなってほしいと思われている。そして事実、いずれそうなる。なにせ出席が足りない。


 酷な運命だ。誰かに救われてしかるべきだ。


 しかし彼のような人間を——救われるつもりがない人間を、誰がどうやって救えるのか?

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