こんなに月が綺麗なのに〜夜間定時制の俺と机の中の交換日記〜
うつみ乱世
一章 月とゴキブリ
第1話 交換日記
担任の椎名(しいな)先生は、クリップと大きな布を使って、教室後方の黒板を覆わんとしているところだった。
「ん? ああ、望月か。早いな」
「先生は珍しいですね。普段ならこの時間にはカーテンをかけ終わってるのに」
「ああー、今日だけちょっと忙しくてなあ」
先生は作業の手を止めて、傍の机に腰掛けた。
「こんなに早く学校に来たってやることないだろう」
「そうですね。でもなんとなく」
俺がつい目を逸らしたのを、先生は目ざとく見逃さなかった。多分、見逃さなかった。だから妙に飄々とした様子で茶化した。
「まあ、早起きは三文の徳って言うしな」
「どういう冗談ですか。確かに俺は朝から働いてましたけど、先生は何時起きですか?」
「えっ? 自分はまああれ、そのあれだ……十二時くらいかな?」
「それでよく三文の徳を説けましたね……」
見ているだけというのも落ち着かないので手伝うことにする。
「ここに留めればいいんですか?」
「そうそう」
布の端を持って伸ばし画鋲で留める。その折に自然と、マグネットで黒板に留められた掲示物が目に入った。この教室の——「係」のリストだ。誰が何の係に属しているのか、それを表記している。例えば、『号令係 遠藤』といった感じ。
「全日制の方には号令係ってのがあるんですね」
「らしいな。あんま見るなよ」
「ああ、はい」
作業を終えれば、教室後ろの黒板と、そこに掲示されていた掲示物は全く見えなくなる。
「じゃあ……今日は確かもう会わないな。ぼちぼち頑張れよ〜」
椎名先生は一度出ていったのだが、すぐに戻ってきた。
「忘れてた」
椎名先生が向かったのは教卓、そこに置かれた座席表である。透明なケースから座席表を取り出し、代わりの座席表を入れる。今までケースに挟まれていた紙片は先生の懐にしまわれた。
「じゃあな」
こうしてこの教室から、この教室を使っている誰かの気配が抹消された。
「……」
窓の外、一面が夕日に翳った体育館に目をやる。
昼と夜は交わらない。交わってはいけない。それはきっとなんらかの「配慮」によるものなのだろう。この教室は確かに俺たちのものなのだと実感するための措置だ。そうでなければ——まるでこの教室を「借りている」ように思ってしまっては——俺たちは生きていてはいけないのではないかと錯覚しそうになるから。ここに集うのは、ただでさえ「普通」から追いやられた者たちなのだ。
誰もいなくなってから、俺は教卓の中を覗いた。
「あっ……た」
それは一冊のノート。俺の絵でびっしりの落書き帳。
どこかに落としたかと肝を冷やしていたのだが、やはり教室に忘れただけだったらしい。見られては恥ずかしい絵もたくさんあるので、できるだけ早く見つけたいと思っていたのだ。
「よし」
ほっと胸を撫で下ろした。
18:00。一時間目。
「点呼ですね……ではこちらから。水壺(みずつぼ)さん」
水壺は頷くだけだ。挙手すらしない。
「はい水壺さんね」
数学の先生が点呼の返事を徹底させないのは、彼が物腰の柔らかいお爺ちゃん先生だからではない。この学校では——夜間定時制では——どの先生もそうだ。
「小泉(こいずみ)さん」
「はあーい」
「はい小泉さん。では次は、望月さん」
「はい」
「はい望月さん。これで、三人ですね。他に来てる人は? はい、いませんね」
これにて点呼は終わる。誤解を避けるため言及しておくが——この学校は決して山村だとか離島だとかそういう辺鄙なところにあるわけではない。校舎が小さいということもない。教室には机は四十個弱ある。しかしそのうち埋まっているのは三つだけなのだ。
本来この教室には二十七人の人間が来るはずだった。入学から二ヶ月経って未だ、全員が揃う瞬間は訪れていない。もちろんそんな瞬間は今後も訪れない。
「人もいませんし、問題集を解く時間としましょうか。回っていきますね」
二十七分の三、つまり全体の九分の一。それだけしか来ていないのだから、このような指示になる。三人しかいなかろうが内容を教える教師もいるにはいるが、少数派だ。きっとこの先生もたったの数人にだけ教えるのは張り合いがないか——まあそんなことはきっとないだろうと思うので——極力、置いていかれる人間を作りたくないのだろう。だから一時間目はこうして自習に近い形になることが多い。
そして俺はこの時間、大抵の場合で、趣味の絵を書いていた。絵とはいっても美大を目指せるようなものじゃなくて、いわゆる漫画。イラスト系の、美少女絵、みたいなものだ。いかんせんアニメオタクなので。とはいえ夜間定時制に通えば嫌でも夜型になるので、深夜アニメを見ていない人間を探す方が難しかったりする。
ということで、俺は今日もいつも通り落書き帳を取り出したのだった。
「……え?」
そして、俺の目に映ったのだ。その文字列が。
やや露出の多いキャラクターイラストの傍に。水色の、細い、丸みを帯びた字で。
『えっち』
「っ——!?」
血の気が引いた。まるでそう読み上げる声が聞こえたかのようだった。
「ん? どうかしましたか?」
「ん、あ、いえ。いえ、なんでもないです」
慎重にパラパラとめくっていけば、落書き帳を構成するイラスト一つ一つに水色のコメントがついているではないか。
——えっ、えっ。
『これは時間かけたね』
『なるほど』
『原作と違う』
『足折れてない?』
『かわいい』
恥ずかしさやらムカつきやら嬉しさやらなんやらかんやら、色々な感情にごっちゃになりつつめくっていって。
『リクエスト。オールドローズのセインを描いてほしい』
最後の一つは明らかに、俺に向けたメッセージだった。
こうして、夜を生きる俺と、昼を生きる彼女との、ノートの上だけの交流が始まったのだった。
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