2-21 前へ

 一階では食堂タベルナの混雑の中、食器を運ぶ女や鍋を抱えた奴隷の奉公人にぶつかりながら抜け、手をつくように飛び出した路地で転び、拾い上げた如意を杖に寄りかかるようにして、立ちあがった。


 馬車の向かった北に目を向けると、見晴らしの塔が見えていた。


 肩を掴み、息を吐き、彼は歩き出した。


 建物と、露店のテントが並ぶ間の道の、人の流れの中を痛む胸をさすりながら。


 雑踏の先に、馬車はもう見えない。


 ふいに視界が白み、膝が折れかけ、如意を石畳に立てて、呼吸を整え、廃車寸前のエンジンのような不整脈に、不安が広がっていく。


 だが、胸を拳で叩いた。


「なんだってんだ…… このくらい」


 しかし、耳元でも、ウエストコートの男が囁いた。追いつけるものか。彼女は我々と行くことを選んだんだ。お前は捨てられたんだよと……。



 だが、それも一瞬だ。


 次の瞬間、彼は全ての息を吐き、全身を叩きつけるように駆け出した。






 彼女を止める。その思いが、足を持ち上げ、腕を振る。


 悲しみは背中を焦がしている。例え、落ちていくあの目と結んだ口が、彼女の最後のメッセージでも、命を奪って行かなかったことを単純に、それだけと受け取れない。


「──とめて欲しいんだろ、ほんとは、きみだって!」


 足が石畳に着くたび、胸で折れた針先が躍る。


 道着の胸を握って息を詰めながら堪え、前のめりに追ううち、日傘をさした娼婦と肩がぶつかり、双方が倒れた。


 用心棒と見える騎士崩れの黒服に、襟首を掴まれ、持ち上げられた。


 それが振りかぶった拳で殴りつけて、横向きに音を立ててタケシは石畳に倒れ込んだ。


 

 黒服の靴底守るように踏みつけた顔が邪魔で、女が蹴る場所を探し、その爪先が閉じた下腹部にめり込む。


 目を吊り上げた女に罵倒され、日傘で腰や背中を殴られ、脚を蹴られても、仕方がないが、さして痛くもないこんな無駄な時間と痛みが呼んだ拒絶心に、こんな街、壊しても構わない気がした。


 腕と如意で覆う頭の中、イリアのつぶやきが目に浮かぶ。



「──時間がない……」


 彼が切れた唇でそうつぶやくと、息を切らした女が手を止めた。


 そして唾を髪に飛ばし、


「いっちまいな、この、ものぐるいめ!」


 そう言い残すと肩をいからせて娼婦は、黒服に向き直り、向こう脛を蹴った。


「アンタもだよヴィダー! ぼさっとしてないで身を挺してアタシをかばってくれても良かったじゃないよ!」


 そして背を向けて歩き出し、黒服はタケシの足元に、治療代のつもりか銀貨を一枚投げて寄越し、


「見かけない顔だな」


「……。」


「次ぶつかる時は、人を見たほうがいい」


 そう忠告して女を追った。


 タケシは、口の血を拭い、立ちあがり、よろめきながら、塔を見た。


 馬車の中でも、揺れながら、きっと彼女が待っている。


 彼は胸を押さえて、如意を杖に、歩きはじめた。







 どこをどう歩いてきただろう。


 目の前が煌めくように白みはじめた。



「──リア」


 地面にめり込んでいくように足を進める彼を、人々が道を譲りながら、驚きと軽蔑の混ざったまなざしで見送る。


 前方でも、慄くような顔で人波が左右に割れていく。


 目を上げると、ひらけた視界に、広場の塔が近い。


 笑んだタケシに、一瞬、見えるはずのない馬車が見えた。


「イリア」


 つぶやくその名に、訳がある。


「イリア……」


 瞼に焼き付けた笑顔に、訳がある。


「イリアアァ」


 たった三日前に会ったんじゃない。


 心があの子を救えと叫んでいる。


 純粋な光しかない〝回廊〟の中、無限に漸近する時間、この正気を保つことができたのは、彼女とした約束があったからだ。


 あの回廊の、螺旋に渦巻く光の中にも似た、この息苦しさの中、駆けながらタケシは思い出した。


 彼女とはずっと昔に逢っていた。


 子どもの頃に、並んで見あげた夏、青い雲に、彼女は何と言っていたか。どうしたって光の中で、彼女の笑顔が眩しくて、思い出せない。



 その彼女が今、目の前にいるように見えた。





 ──でも。


 その笑顔のままタケシは、顔から道に倒れ込んだ。


 石畳の上を、滑るように如意が転がって行く。



 心臓が静かだ。


 痛みもない。指にも、歯にも、力が入らない……。


 横たわる笑顔を、涙が伝う。心だけが一直線に駆けて行く。



 取り残されたようなからだが、道に横たわったまま、時折動く。




 視界が白んでくる。


 車輪や物売りの音、人々の嘲笑とまなざし、渇いた路地と獣糞の匂い、あらゆる感覚が拡大していった頂点で、気を失った小鳥のように意識は落下を始めた。


 その向かう先は、闇。


 すべてが閉じていく前に、見えない馬車に向けて、白目で息もなく、彼は地面を這うように手を伸ばした。


「……、おまたせ…… ア」


 








 彼が伸ばした手の、痙攣が止むと、遠巻きにしている通行人の足もとに、まるで餌を見つけた猛禽のように無邪気な目を光らせて次々と子供たちが顔を出した。


 子供たちは、互いに目配せをする。石畳に倒れ込んで動かない黒髪の少年に群がるべくタイミングはかっている。なかでも緋色の道着の襟元から、ちらと覗いている奉書包みに彼らは上気する。


 皆、このあたりのストリートチルドレンである。スリを生業とし、ひとブロックもこの奇妙な行き倒れを追ってきた。



 その元締めらしき年長の少年が、帽子を目深に歩行者を装って、如意に手を伸ばした時、その手の先に、磨き抜いたサバトン(靴を覆う鎧)の爪先が立った。


 見上げるまでもなく、それは青いローブとサーベルを帯剣した、腕組みの憲兵である。


 元締めの少年は、「へへ……」と、愛想笑いを浮かべて、靴紐を直し、指笛を吹き子分たちに撤収を命じると、帽子を押さえて前のめりに立ち去った。




 彼を見送った憲兵の、眩しそうな視線がタケシに向けられた。


 その目は、緋色の道着と拾い上げた金属柱、そして、手配書を見くらべて、確信するように瞬いた。

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