2-13 パレードの孤独
イリアはパンを小さく千切り、口へ運ぶ。
その彼女の横顔は、よそ行きなのか、食べ方に品の良さが滲むが、彼女らしくない寂しさが見える。淡々と食卓の話題に耳を傾け、相槌をうちながら、表情には微かな鈍色の雲が漂っていた。
「そうですか……。では旦那さまは、明日もお仕事ですか」
イリアの声のトーンは低く抑えられ、語尾もよそよそしい。あえて深入りしないように、心に壁を作っているようにタケシには映った。
だが、彼の視線が食卓の中央に落ちている間に、お構いなしのガフが彼女の膝に無邪気によじ登った。腕のあいだから顔を出し、ガフは、まるでその場所が自分の定位置であるかのように彼女に振り返って笑んだ。
そのおでこに、口付けするとイリアは微笑んだ。
「ガフ、ダメじゃないの!」母親のエステルは慌ててたしなめるが、イリアは気にする素振りもなく、ガフの小さな腹にそっと手を添えた。そしてその頭の金髪に鼻を近づけ、匂いを嗅ぐと、微笑みを浮かべながら目を閉じた。
「いえ、こうしていますと、故郷の甥を思い出します。」
タケシも目元をほころばせた。
どこかしらガフには、彼女を和ませたい気持ちがあったのかもしれない。
彼女の声には、遠い記憶を懐かしむような温かみが混じっていて、エステルは困ったように笑みを浮かべた。
「まあ、それなら……。でも、ガフ、イリアさんに甘えすぎちゃダメよ」
そう言いつつも、エステルは柔らかな眼差しで二人を見守っている。
やがてエステルは、話の続きを思い出したように、窓の外に目をやった。
「──ええ。うちの人みたいな下っ端でも春の国の王子さまの一連の式典が終わるまでは、ずっと泊まりこみなんですよ」
「なるほど。それはお忙しいことでしょうね」
「とくに明日は春の国の王子さまが、帰国のパレードをなさりますでしょ」
その瞬間、イリアの手が止まったのを、タケシは見逃さなかった。僅かな苦痛に耐え、いつも通りの息遣いに彼女が無理やり舵を切っていくように見えた。
一方、エステルは目を伏せたまま、亭主を案じる様子で、
「──ええ。なんでも帰国の前に見晴らしの塔の足元を、お
そう心配そうに手をエプロンの上で組んだ。
するとガフが、イリアの膝の上で振り返りながら無邪気な声を上げた。
「お父さんもその、おめぐりのパレードに出るんだ!」ガフの言葉には得意げな響きが含まれている。続けて、胸を張りながら言った。
「だからあしたは、ぼくも観に行くんだよ!」
だが、エステルは少し困ったように眉を寄せ、
「──もう、ガフ」笑いながら首を振る。
「この子ったら、まったく。何度言っても聞かないんですよ。どうせ人混みの頭ばっかり見えるだけで、王子様もなにも、ましてや旦那が見えるわけないのに……」
エステルの言葉を受けて、タケシは窓の外を見やり、視線を広場へ向けた。たしかに、この
「いやいや、ちがうよなあ、ガフ」タケシがガフに笑いかけながら言った。
「王子様が見たくて行きたいんじゃないよな。パパを近くで応援したいんだろ?」
ガフは答えなかったが、パンだらけの歯を剥き出しにして、タケシに満面の笑みを浮かべた。
その小さな横顔を見つめていたイリアは、沈痛な面持ちで胸の詰まりを吐き出すように息を漏らした。
「──ダメだ。」
その一言が、食卓の温かい雰囲気を水を差した。
「ママの言うことを聞くんだ」
エステルは目を丸くし、ナプキンを胸の前で握ったまま固まった。タケシも驚いて匙を口元から下げながら、時が止まったような静寂を、そこに聴いた。
ただ無邪気にパンを頬張っているガフを除いては。
「──なんで?」
肉に伸ばした手をそのままに、不思議そうに振り向いたガフは、そこでやっとイリアと表情をあわせるように、眉尻を哀しそうに下げた。
するとイリアは、その眉のまま微笑んで、困ったように言い、
「さっきのピエロが、まだ街をうろついているかもしれないだろ?」
アイツが、ガフを食べちゃうかもしれないんだぞと、大きく口を開けてガフを笑わせた。
タケシの声は、なにか大変なことを思いついたかのように腰を上げかけた。しかし、途中で胸が詰まったかのように、彼はうつむいて、
「そうだな。それがいい……」
そう言っただけで、腰を下ろした。
脳裏に、窓辺で塔を見つめ続けていたイリアの姿が浮かんだためだった。あのときの彼女の仕草、
断片的な情報が絡み合い、漠然としていた悪い予感は、心臓を締めつける葛藤となってタケシの胸から一直線に見晴らしの塔へと繋がった。
顔を上げた彼は、もう大体のところ、察しが付いたような強い目で、イリアの睫毛を伏せた青い目を見た。
──この少女は、王子を狙っている。
ガフが小さな手で口に運ぶ旺盛な食欲を哀しそうに見ているイリアは、膝の上で彼の柔らかな髪をそっと撫でながら、遠く、心の奥底にある霧に包まれた湖を見ているような孤独な目をしていた。
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