1-40 風の中の約束

 永遠も、終わってしまえば一瞬のこと。


 地上は変わらず、地獄だった。




 タケシは川馬ケルピーの胴体の上、雨に打たれながら、コアの髪をしっかと掴み直した。


 ほんの刹那、意識を失っていたのだろう。遠心力にのけぞるアゴを胸に引きつけて、反対の手の如意にょいを、むき出しのコアに当てようと歯を食いしばった。


 だが、その剥き出しになったコア、つまり転生者も、髪を掴まれたまま必死にケルピーの全身を操って石畳の上をのたうち回る。魔獣の外殻にしがみついて離れないタケシを、回転して振り落とそうと言うのか。


 だがタケシも、死んでもその手を離さない覚悟だ。同胞の転生者、青山と出会い、約束したばかりなのだ。何としても龍哭を見つけ出し破壊する。


 タケシはコアの髪に加え、ケルピーの皮膚に、歯で喰らい付き、振り回される遠心力に対抗し、


「──おんがおごえおあっえこんなトコで終わって だあるああたまるかーーーッ……!」


 唸り声をあげる。








「──よかった!」


 タケシが気を取り直した様子に、ディンゴは、マッチを雨に濡れないようにマントの下へとしまったが、予断は許されない。爆弾を包んだシーツの端を手甲に握り、


「頑張れ……! 如意を、コアに当てるんだ……!」


 振り回されているタケシの両脚の行先を、目で追う。


 尻尾の大半を戦斧の大男が奪ったせいか、あれほど暴威を振るったケルピーの全身のしなりも、如意片手にコアのザンバラ髪を掴むタケシすら、振り落とせずいる。








 また酒場の窓からも、アルセンとエメラが、広場の口で振り落とされかけているタケシの両脚を、胸の前で手を組み、あるいは握った拳で、息を殺して口を結び、叫びたい気持ちを抑え、二人して祈るような目のまま追っている。


 トズランは、窓辺から身を乗り出して目と耳でタケシの合図を待っている。


 戸口でイリアも、魔力を腕に充填した状態で、いつでも重力呪を放てるよう、目付き鋭く、ケルピーを指鉄砲で追っている。タケシがその手でコアに、如意を当てるのを、歯噛みしながら今か今かと待っている。


 だがコアも、激しくもがいて抵抗しているものと見え、


「クソッ、また避けられた!」


 トズランが憤り、そう窓枠を叩くと、


「タケシは!」指鉄砲を構えたままイリアが、トズランに叫んだ。


「手を離しちゃいねえ!」


 トズランの目には、雨の中、仰向けのケルピーにしがみつくタケシが金属棒をコアに当てあぐねる様子がつぶさに見える。だが、


「わかって、ああやって、グルングルン回っているんならあの使役魔獣、そうとう賢いぜ」


 ツメを噛んで、今は彼もここから、見守るしかない。


 窓辺に足を掛けたまま焦れているが、イリアも、


「もう一度あの光が見えたら、わたし、重力呪グラッボを撃つわ!」


 指鉄砲の先で、ケルピーの胸部を追うように狙いながら、彼を見上げて言った。


「……どうしたって声の合図じゃラグが出るもんな……!」


 トズランも先の失敗は避けたいようだ。


 

 そこにエメラが振りむいて、「あのさ、素人考えなんだけど!」声を上げた。


「なに?! そんの関係ないわ! なんでも言って!」


「その足留め魔法、ケルピーの舌に当てられないかしら!」


「──した!? 舌って、ベロの舌!?」


 イリアは彼女に舌を出し、確認するが、


「そう! あたしゃ羊飼いの娘なんだけど、オオカミに襲われたら舌を掴めって! お父ちゃんに習ったんだよ! そしたら大概の動物は止まるって……!」


 試したことはないけどさ! ……そうエメラは言うが、たしかに広場のケルピーも暴れながら舌を振り回している。それは斬られた尻尾の方向とは真反対に振っている。


「──わかった! 試してみる!」イリアはすぐ指先で狙いを定め、「重力呪グラッボ!」青い閃光を放ち、ケルピーの舌を貫いた。











 すると重力呪は、広場でケルピーの舌を三倍重くし、その仰向けの口角から横へと異様な重たさでもって、魔獣の喉を内側から地に縛りつけた。


 ケルピーは仰向けのまま、うめき声を上げ、喉を地面に押し付けられた文句を言うように、短い手足で空中を漕いだ。


 イリアは、額に脂汗をうべて、持続的に、魔獣の舌へと重力魔法を注ぎ込んでいる。


「やったか」アルセンも窓から身を乗り出し、エメラも歓喜して彼の尻を何度も叩く。


 彼女のアイデアは、完全に功を奏したようだ。


 魔獣は仰向けのまま、イリアが汗しながら、押さえ込んでいる。



 ──しかし、重力呪には揺り返しがある。


 多大な負荷に、イリアの額には汗が滲み、指先から肩にかけてが鉛のように重たくなって来る。重力呪グラッボは、距離が近いほどに効果を発揮する。揺り返しもまた角の如し。今、彼女の体重は三倍になっている。


 食いしばる犬歯が軋み、膝立ちする石敷きの床も、氷河のように割れて亀裂しながら、ひとつ、またひとつと、陥没していく。


 イリアへとのしかかる、重力の異常を目の当たりにしエメラは、息を呑み、口元を押さえた。


 


 






 雨の中、亀のようにうずめていた顔を高く上げて、タケシは、左右を見回した。


 静けさが、広場に戻っていた。


 魔獣の腹の上、彼は、腰を落として脚に踏ん張りをきかせ、コアの髪を引っ張って立ち、如意を突き立てる。


 この機を逃すことはできない。


 これでしまいだと、タケシは大きく息を吸い込んだ。そして合図に酒場の方へ振り向いたが、その時、折悪く頭上の雨雲に、切れ間ができた。


 星明かりが、血を洗い流したばかりの広場に差しこんだ。


 その静けさにタケシは、ケルピーの胸の上、もげた前肢の傷跡に露出した転生者の伸びた髪を手に、ふと冷静になった。



 星明かりに浮かび上がる、コアの顔を、雨が洗い流していたせいもある。


 むしるほど手に絡めて引っ張っていた髪の先を、緩めると、転生者の顔が、力なくうなだれた。


 タケシは、その顔を確認せずにはいられない気持ちがしてきた。


 罪悪感だとも言える。同じ日本人の可能性が強い。慈悲の介錯だとは言え、それを殺めようと言うのだ。


 タケシはその哀れみのようなものを、一度は跳ね返し、被りを振ったが、そうは言うものの、いつか遺族には、お詫びもしたい……。そう思うと、いても立ってもいられず、その顔は覗いておかねばならない。やはり罪悪感には勝てなかったタケシは、ケルピーの胸の上で、しゃがみ込んだ。


 


 髪の毛の中、その目は半ばまで閉じ、落ち窪み、蒼白で、


 指を当てて、額から髪を分けると、その見覚えのある顔に、タケシはのけぞり、驚愕して、尻餅をついたまま後ずさった。




「なんで……」


 痩せこけ、頬骨が浮き出ているが、その顔は── 青山であった。



 白眼を剥き、ケルピーと一体化した舌を口角から横に突き出したまま、呼吸もままならないように口から泡を流しているが、その顔は紛れもない。さっきまで回廊で溌剌としていたあの、警官の、彼だ。



「──どうして……」


 タケシは、目に涙を浮かべ、如意からも、腰からも、力が抜けた。









 視界がぼやけた。イリアはもう、意識を保つことすら困難だ。


 息を吸うことさえ、辛く、


「──、ごめ、限界……」気力を使い果たし、彼女はその場へ倒れ込んだ。


 駆け寄るエメラに抱きかかえられながら、熱病のような喘鳴で肩呼吸をするが、目も開けられぬほどの彼女は手を振り払い、座り直し、ケルピーに、指鉄砲を向け、片手を床につくが、


「ごめん、ほんとに、無理をさせちゃった……!」


 そう泣き出しそうなエメラが止める胸の中で、肩をあえがせながら、それでも彼女は笑んで、


「……でも、これ、使えるわ…… ディンゴさんの…… 爆弾を組み合わせたら……、いけるかも……」


 うわごとのように半分閉じた目で、そう言うが、トズランが窓辺で叫んだ声に、


「──いかん! タケシが落ちた!」


 心臓が止まる思いがし、息を呑んだ。



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