1-33 僕の命をきみにやる
「……」
タケシは仰向けのまま、薄く目口を開けた。
「おれさ」
その目は、虚ろなまま、天井を見ている。
「力は無いし、武器のあつかいも、戦い方も知らない。なのに、おかしいよな……」
彼は目を閉じた。
「……きみを守りたくてしょうがない」
血で汚れたイリアの頬を、目からこぼれた熱いものが一筋、洗うように流れた。
タケシの頬に、イリアは手をあてた。
「お前は奴隷だ。そんなこと考えなくていい……」
安堵の後に、押し寄せて来た締め付けられるような胸の痛みが苦しいように彼女は、
「だって…… わたしは…… オマエを売り飛ばそうとしている女だぞ……!」
歯を赤く染め彼女は、タケシに向けてか、自分に向けてか、尖った言葉を選んで刺すように、傷つけるように、そして言い聞かせるように、うめき声をしぼりだす。
しかし、その指は、彼のシャツを握り込んでいて、手離したくない様子である。
タケシは、ぼんやりと天井の血飛沫に目を置いて、その矛盾に自分の希望と命運を託した。
「イリアも、悩んでんだな」
彼は静かに微笑んだ。
彼女の矛盾を見ていると、何かを隠そうとしているのは明らかだった。
「うるさい。バカ」
イリアは、そう言いながらも、やはり彼の胸へと、額を押し付けた。
一方、窓際でしゃがみ込む野伏の頭目、アルセンは、
「こいつは信じられねえ……!」
血濡れた砂混じりの顔を腕で拭い、落ちた帽子を引き寄せ被りながら赤鼻に叫んだ。
「トズラン! あのケルピー、今度は何を使いやがった!」
赤鼻は、
「尻尾を使って、屍体をハジキ飛ばしてきやがりました!」
その利き耳で、またケルピーの胴体がバネを解放し、スイングする音を聴き、
「また来やすぜ!」叫んで身を低くした。
再び目の前が血煙に、赤く染まる。
「クソが! 戸口が狭くて、くぐれねえとみるや嫌がらせか! ったく! 使役魔獣ってのは厄介な相手だぜ!」
口元を拭いながら頭目は手鏡をザックから取り出して袂で表面の血糊を拭い、頭上の窓に掲げ、外の広場を物見し、暗い広場でケルピーの、次の弾を探しているのか、不恰好に石畳の上を回転しながら這っている姿を映す。
アルセンは耳鳴りしているのか、大声で、店の奥に声を張り上げる。
「どうするよ、ディンゴ! 俺あ、てっきりヤツぁー、村を襲うもんだと思ってたが!」
大男の重鋼甲冑を補助していたディンゴは、
「──作戦変更もありうる! 何かいいアイデアがある者は遠慮せず出してくれ! あが、とりあえず点呼だ! 死んでる者以外は返事をしろ!」
血の滴り落ちる天井めがけて、鼓舞するように、腹の底から声を張り上げた。
イリアは、顔を上げ、指で涙を拭い、
「──タケシとイリア、無事です!」
天井に向けて点呼に応えた。
アルセンは、「大男はどうだ」とディンゴに声を張る。どうやら彼は言葉を出せないらしい。
ディンゴは「大丈夫だ! ボヤンスキーさんは無事です!」そう代理で声を返すものの、エメラの声がしない。
タケシは、身を起こして彼女の涙を拭いたが、イリアはその腕を振り解き、
「でもなんか、嬉しいな。心配してくれたんだ」
「──バカ。売る前に死なれちゃ困るだけだ」
そうイリアは、雑念を吹っ切るように頭を振って血糊を落とし、髪を後ろで結び直して、
「いいか。バルディアじゃ、伏せろって聞こえたらすぐにその場に伏せるんだ! ……あとは生きるも死ぬのも運次第。一人前な口はまず自分のケツを拭ける様になってからきけ!」
そう喝を入れ、
「無事ですか、エメラさん!」
声をかけながらカウンターの方へ這って進もうとしたが、
「くるぞッ」と、
トズランの予告する声が終わる前に再び、──血飛沫が臓物と金属を混えて壁の衝撃とともに降り注ぎ、そのイリアの上にまた、覆い被さっていたタケシを、
「……!」血飛沫が濃く雨のように滴るなか、イリアは足蹴にして突き飛ばし、
「あと、約束しろ! 二度とわたしを守るな!」
そう怒鳴りつけた。
そこにディンゴの声も届く。
「──エメラさんも無事だ! だが……!」
血で煙るカウンター方面から、そう声がし、彼女もむせこみながら、
「ごめんなさい、みんな! 残りの火薬を濡らしちゃったわ!」
そう聞くとイリアは、腰低く立ち上がり、頭を押さえて彼らのいるカウンターに向けて駆け出そうとするが、
その白い手首を、タケシの手が掴んだ。
「──何をする、腰でも抜けたのか! ……邪魔をするな!」
「違う! イリア、おれも魔法をつかう。協力してくれないか」
そう言うと、イリアは床の上、自分から膝をつき、
「……魔法?」
姿勢を低くし、そのまま血と遺骸の破片で汚れた床を這って転げた木樽を、足で器用に引き寄せて、仰向けそれを抱きあげると今度は背中を使ってタケシの方へ転がして、遮蔽物にし、その奥にタケシの腕を引き込むようにして呼び、寄り添うように、裏側へと隠れた。
「魔法って言うとお前、あの、エナツか! エナツのユタカか?!」
圧倒的な血と臓腑の雨の中、期待するような彼女の笑顔が、タケシの心に、一筋の光明のように差しこんだ。
窓際には、全員の無事を確認してひと安心したように、アルセンが手鏡の血糊を片手の指でふきながら、外の魔獣の様子を再びうかがった。
ケルピーも、また動きを止めている。……が、以前よりも酒場へと近い位置に移動し、止まっている。
「そうか……」彼はつぶやいた。
石畳の上を転げ回り、憲兵の遺骸を弾き飛ばしていたのも、血糊を皮膚に塗り付けて、乾燥を補う目的でもあったのか。
「ったく。……やけにアタマの良い使役魔獣だぜ」
しかし、静けさの戻った店内に、何かが床を転げながら近づいてくる物音がし、彼が目を店内に戻すと、テーブル樽が腸を巻きつけて、意思を持っているように転がりながら近付いてくる。
アルセンの顔が、引き攣った。
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