第二話 イワエド
1-10 ある父親の失踪
青山亮二は、制服から背広にきがえて新宿署を退庁した。
書類仕事を片付けているうちに、陽はすっかり高くなっている。いつものことだが、腕時計をみるともう昼前だった。
こうして当直明けに帰宅する際、青山は署の目と鼻のさきにある丸の内線新宿警察署前 E7出口から東京メトロにはのらず、むかいの歩道にむけて都道を渡る。
勤務明けの、のんびりとした気分にまだ浸っていたいのだ。
そうして彼は新宿鬼子母神の常泉寺を外塀ぞいに、今日は気のむくまま小滝橋方面へと、足をすすめた。
常泉寺の境内にひろがる墓地には線香のけむりがさかんにあがっていて、墓石にある花もいつになくカラフルだ。青山は、もうお盆かと思いながら歩く。去年の今頃は妻を、彼女の実家の伊丹におくるため東京駅の新幹線ホームに見送りにいっていたはずだ。
青山は、くちもとに浮かぶ自分の笑みに気づいて、晴れた空をあおいだ。
あのときは、まだいまいち実感がなかったが、平らにしか見えない妻のお腹にいた子が、いまは家で自分の帰りを待っているとおもうと、頬がゆるむのだ。
私立大学をでて警視庁に入庁。研修のあと機動隊を経て歌舞伎町交番勤務。結婚するのと同時にむかえた三十代からは新宿署の留置管理課におちついて、今日にいたる。
路地のむかいに、煮干しラーメンをだす店と、客の行列がある。
店は今も盛況な様子で、独身寮時代の後輩らの顔もある。かるく手をあげて笑顔をし、青山は西武新宿駅にむかう。
百人町の交差点にでると、横断歩道を渡って右手にむかい、中央線と新宿線の高架したを潜り、駅前通りとは名ばかりな静かな裏道にある西武新宿駅の北口をつかい、各駅停車 本川越ゆきに乗る。
歌舞伎町にある西武新宿駅は、高田馬場駅や所沢駅などを経由して本川越駅にいたる首都圏屈指の通勤通学路線の始発駅であるが、この時刻、座席には余裕がある。北口改札からほどちかいシートにゆったりとかけて、スマホのアラームを三〇分後にあわせる。
特急をつかえば、家の最寄りの武蔵関駅までは十分の短縮にはなるが、当直明けのこんな日には居眠りが怖い。へたをすれば、降りるべき上石神井を眠りこけたまま乗りすごして、目覚めたときには終着の本川越、あるいはさらに往復して再びこの西武新宿で目を覚ますことになりかねない。
平日のこの時間、この界隈で飲んでいる若いのは、鉄道か消防か警察官だというのは99パーセント実話にちかい笑い話だが、これからしばらくあいだは、明けの非番でも同僚や後輩と飲んで帰ることはないだろうと青山は思う。
発車のベルが鳴り、各停列車はホームを出発する。車窓にはしばらく並走するJR東日本の中央線快速電車・中央総武線各駅停車が左にカーブしながら離れていく。操車場のように広々と線路がならぶさきに昼間の歌舞伎町や大久保の景色がながれてゆく。
まだ青山の人差しゆびを握って笑うことが精一杯のちいさなあの手が、やがて父の手を握りかえしてヨチヨチと歩くようになる。そてがいつのまにか、かけだして、公園の芝生で花を摘んだり、おませなことを言いだして、やがて手を握りかえしてくれることもなくなって、生意気なことも口にして、いろいろな慶事のたびに写真を撮って、いつのまにかボーイフレンドなどもつれてきて、角隠しに、三つ指をついて嫁いでいくのだ。
ふと、アラームの音にきがついて、青山はスーツの胸もとをまさぐり、スマホを手にし、口もとによだれがないか確かめる。──いつのまにか眠っていたようだ。
上石神井駅の操車場を背に、彼は、腰かけなおして襟もとを正し、網棚からカバンをとると、次の武蔵関での下車にそなえる。
しばらく車窓を見ているうちに、東京23区の最西端にある駅、武蔵関駅に各停は停車する。
橋上にあるホームに降りて、駅舎の改札をPASMOで出ると、ひだりてに曲がり、階段でおりる。
北口をでた正面のセブンイレブンで晩酌のあてと妻への土産のシャーベットアイスのガリガリくんを求め、それを手に、店をでて、小ぢんまりとした商店街をひだりに向かう。
踏切の前で進路を池袋線大泉学園駅方面にとり、それとJRの吉祥寺をむすぶ西武バスが空気を乗せてはしる関町庚申通りのせまい歩道を、青山は北にむけてあるく。
ビニール袋でさげたガリガリ君が融けてしまうまえに、妻と七ヶ月になる愛娘が待つ七階建てのマンションの赤い外壁がみえてくる。
あおく澄んだ空に、入道雲が陽射しをうけていて、エレベーターで五階につくと、彼はチャイムを鳴らした。
だが反応はない。
寝ているのかもしれないと青山は、手のビニール袋をドアノブにかけて、カバンのなかに苦心して家のカギをさがし、かぎ穴に差しこんでから右にまわしたが、それは空まわりした。
それはつまり、鍵があいていたことを示す。
彼は、カバンを脇に挟み、ビニール袋を手にノブをまわしてドアを開けるが妻のクロックスサンダルは玄関の土間に散乱しており、キッチンシンクの下扉も開けっ放しになっている。
そして室内には物音ひとつない。
それに青山が目を疑ったのは、シンク下の戸の内側に、あるべき包丁が一本みあたらないことで、胸騒ぎがして青山は手のものを落とすように床へと置き、革靴をそろえることもなく、自宅にあがりリビングへ駆け込んだ。
そこには、妻の圭子が血を流し、目をあけたまま、あおむけに倒れていた。
駆け寄り青山は、その首に手をあてた。肌はつめたく、脈もない。
震えてちからがはいらない四肢から、急速に感覚がうせてゆく青山は、頭のさきから痺れてくるようなのは呼吸が荒いせいで、このままいっそ気を失って、そのまま死んでしまいたかったが、七ヶ月の娘の笑顔がまぶたのなかで彼を呼び戻した。
彼は歯を食いしばり、床を這って娘が寝ているはずのベビーベッドの柵へと掴まり、立ちった。
だが、その布団のなかに愛娘の姿はなかった。手でまさぐってさがしたが、
青山は、妻の亡骸によりそうように血だまりのなかに腰をおろすと、携帯から一一〇番に通報する。
だが、不思議とつながらない。
薄れていく自分の正気を感じながら、新宿署の外線番号をスマホでダイヤルするが、自分の緑色で半透明なふとい指と水かきが邪魔で、プッシュが出来ず、彼はそれを壁に投げつけ、
そして窓をこじ開け、ベランダに出た。
マンションのそとは、幅広の大河で、木材で組んだ橋のたもとに流木でこさえ巣は半分ほど水底に没してあって、彼は、その水中から、ながい尾を川床に押し付け、たかくかかげた鼻で、娘の卵の匂いを嗅いだ。
それは、内陸からする。それを拐ったものが、砂の街道を南に向かったことを意味する。
波打ち際に横たわる、つがいの遺体にわかれを告げるようにその口もとの匂いを嗅ぐと、その緑色の粘膜質肌をした巨体のウマともカエルともつかない魔獣は、鼻さきをたかくかかげて、風のなかに子の匂いを捜し、追うように、砂のうえに上陸した。
乾いた砂は、身をゆすって踏むたびに水分を奪うが、それでも彼は、砂利道のうえに水気と粘液で軌跡を残しながら、おもうようにすすまない長い尾をひきずり、子の匂いのする内陸にむけて、四つ足と腹で這ってすすんだ。
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