第5話 八岐大蛇 5
時計の針が午後九時を回った。こんなに遅い時間まで学校にいるのは初めてで、不謹慎だと思いつつも武尊はちょっとばかりワクワクするのを止められなかった。もっとも霊感のある清次はそれどころではない様子だったが。
「ちょっと……真っ暗になっちゃったんだけど。そろそろ行こうよ」
「……職員の車が一台残ったままだ。あれが帰らないと……」
「あの赤い車は稲田先生のだよ。自分のクラスの生徒が事件に巻き込まれたかもしれないから、その対応でずっと残業してるんだ。もしかして疲れて寝ちゃってるかも。僕たちのことなんか気づきもしないって」
不安そうな表情の大和の肩を武尊がぽんと叩いた。
「清次の言う通りだ。もたもたしてたら俺たちの親が通報して大騒ぎになっちまう」
「俺は一人暮らしだから大丈夫だ」
「一人暮らし?」
武尊と清次が驚いて同時に叫んだ。
「島根から一人で上京して来たってのか?」
「父さんは島根で仕事があるから」
「母親は?」
「うちは父子家庭なんだ」
気まずい沈黙が流れた。清次がちらっちらっと武尊を盗み見ている。聞きたいことは山ほどあったが、今日初めて会ったばかりの同級生のプライベートをこれ以上犯すのは良くないと、武尊は喉元まで出かかった質問をぐっと飲み込んだ。
「……とにかく行ってみよう」
真っ暗なグラウンドに人気は無く、プールの周辺には街灯すら点っていない。足音が響かないようにそうっと歩を進めるため、なかなかグラウンドの端にある更衣室に辿り着かない。
「……ねえ、武尊」
清次のか細い声に武尊が振り返った。
「どうした?」
「や、やっぱり僕らだけで行くのはよそうよ」
武尊は大和と顔を見合わせた。大和の表情もあまり良くない。
「そうは言っても、じゃあ誰と一緒に行くんだ?」
「け、警察とか……」
武尊はため息をついた。
「俺たちだって本当に何かあるのか分かってないのに、なんて言って来てもらうんだよ?」
「でも、すごくやばい感じがする。ここまで気分が悪くなったの、僕初めてだよ。とりあえず兄さんに電話していい?」
大和が頷いた。
「俺も同感だ。もし何かがいたとして、俺たちは武器を持っていない」
「兄さんは僕より霊感が強いから、僕らよりちゃんと対処できるかも」
いそいそとスマホを取り出す清次を見ながら武尊はため息をついた。
「もっと早く連絡しとけよ」
「僕だってここまで気分が悪くなるとは思わなかったんだ。それに兄さん社会人で忙しいし……あ! もしもし兄さん? 今大丈夫? 実は……」
突然、ぞくりと背筋に寒気が走った。大和がさっと振り返り、背後に視線を走らせる。
霊感のない武尊にも感じられるくらい、陰湿で濃い気配が近づいてくるのを感じた。ケータイを持つ清次の手が小刻みに震えている。武尊も辺りを見回したが、漆黒の闇以外何も見えなかった。
(クソッ、暗すぎて何も見えやしない)
「大山」
温かい息が耳に触れて、武尊は別の意味でぞくっとした。できるだけ小声で話せるよう、極限まで唇を武尊の耳に近づけて大和がささやいた。
「手握るぞ」
「え?」
武尊の許可を待たずに、ひやりと冷たい手が武尊の手首に触れた。
次の瞬間、今まで聞こえなかった音が背後から聞こえて来た。
シューッ、ズズズ。シューッ、ズズズ。
この世のものとは思えない不気味な音に、武尊は全身の毛が逆立つのを感じた。
(何だこの音?)
グラウンドの砂を、引き摺られた巨体が擦るような摩擦音。それに加えて、巨大な生物の息遣いのような音が聞こえる。武尊の哺乳類としての本能が、この息遣いに背筋が凍るような恐怖を感じていた。
(この音は……)
「蛇だ」
武尊の耳元で再び大和が囁いた。
「蛇?」
「複数の大蛇の息遣いが聞こえる」
「今蛇って言った?」
大和が頷くのを確認して、清次が電話口の兄に素早く報告した。
「兄さん、蛇だって。いや、僕には何も聞こえなくて……」
武尊は背後の闇に目を凝らした。大和と手を繋いでいると、先ほどまでとは世界の様相が様変わりしていることに気がついた。まるで夜目がきく動物のように、漆黒の闇だった世界が黄昏時のように明るく見えた。
「あそこだ」
大和が指差す方向を見て、武尊は危うく大声で叫ぶところだった。
グラウンドの校舎側に、巨大な生物が蠢いている。今さっき校舎から出て来たばかりのようで、グラウンドの砂をざりざり言わせながらとぐろをまいていた。あまりに大きいので、尻尾の先がまだ校舎から出きっていなかった。
「な、何だあれ?」
「え? 兄さん何? もう一回言って?」
大和の声と、電話口の兄の声を復唱する清次の声が重なった。
「ヤマタノオロチ」
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