【12.ピルスナービール】 一九九九年七月

第16話 ヨシアキ

 一度だけ、セイジと十二日間連続で一緒に過ごしたことがある。


 付き合い始めてすぐに、俺たちはルールを定めた。週に一度、夕方から翌日朝までを一緒に過ごすこと、それ以外の曜日は接触を控えること、新たな恋人を作るときにはあらかじめ連絡すること、などなど。

 でも、できればもっとセイジと一緒にいたかった。高校を卒業して大学に入るとき、思い切ってこう聞いてみた。「今は俺しか恋人がいないんだから、週二回、一緒に過ごしてもいいんじゃない? 新しい恋人ができたら、そのとき、元に戻ればいいじゃん?」セイジはきっぱりと拒絶した。「今、ヨシアキしかいなくても、いずれほかの恋人ができます。そのときになってヨシアキとの時間を減らすのは、ぼくにはむしろひどい裏切りのように思えるんです。恋人がひとりであろうとふたりであろうと、数に関わりなく、常に同じ扱いをしたい、そう思っています」

 俺は食い下がった。「じゃあさ、恋人として過ごすのは週一のままとして、他の恋人と過ごさないフリーの曜日に、友人として会うのって、どう? ほかの恋人が望むなら、そいつも交えて」セイジは柔らかにほほえみながら首を横に振った。

 寂しかった。でも、セイジの言いたいことは分からないでもない。それだけ真面目に考えてくれているなら仕方ないか、そう思って諦めようとした矢先だった。セイジが、夏の買い付けに一緒に行かないかと誘ってくれたのだ。


 セイジはチェコを中心とした東欧の雑貨や紅茶、酒を仕入れて他の店に卸したり、ネットで販売したりしている。茶房カフカが開店してからは、そこで提供してもいる。まれにその買い付けの旅に赴いていた。


 七月下旬から八月上旬にかけて、十二日間、ふたりでチェコを旅した。プラハとブルノで仕入れの仕事を済ませると、いくつか田舎の町をめぐって町並みを楽しんだり、サイクリングをしたり、森を散策したりもした。旅行のあいだだけの特別ですよ、と幾度も念を押されながら、二十四時間、ずっと一緒にいた。夢の中にいるようだった。


 チェコはビール大国だ。日本で一般的に飲まれているビールは黄金色をしたピルスナースタイル、その元祖は十九世紀中ごろにピルゼンという町で生まれたピルスナー・ウルケルだというのは有名な話だ。このピルスナー・ウルケルはドイツ語で、「ピルゼンの源泉」という意味になる。でも、ピルゼンは、実はドイツではなく、チェコ共和国にある町なのだ。だからチェコ語でプルゼニュと呼ぶのが正しい。この世界的に有名な「ピルスナー・ウルケル」もチェコに敬意を表してチェコ語で呼ぶなら、「プルゼニュスキー・プラズドロイ」となるのだそうな。「ピルゼン」ではなく「プルゼニュの源泉」だ。こちらの音のほうが、爽やかなかおり、まろやかな甘み、それに力強いコクを備えたあの味わいに合っている気がする。

 俺たちは各地を回って出来立てビールを堪能した。ビール大国の名に違わず、チェコには町ごとに地ビールがあり、ピヴォヴァルと呼ばれる醸造所を兼ねた居酒屋がある。ここで飲むビールがうまいのなんのって、セイジはこのビールのうまさを知っていて、ピヴォヴァルめぐりの便宜のために、外語大でチェコ語やチェコの事情を学んだに違いない。

 首都プラハのあるボヘミア地方はビール、第二の都市ブルノがあるモラヴィア地方はワインが有名だ。俺はワインはそれほど好きではないが飲めなくはない。セイジが飲むのに付き合って、有名どころを飲んで回った。

 蒸留酒もうまかった。チェコで蒸留酒と言えば、何はともあれ、プラムから作るスリヴォヴィツェだ。名産地はヴィゾヴィツェで、その輸入を考えていたセイジに連れられて現地でいくつかの蒸留所をめぐり、試飲を繰り返した。度数は四十度近いのだけど、蒸留酒なだけあって、ビールより、あとに残る感じが少なかった。


 アルコール以外で面白かったのは、ヤブロネツ・ナド・ニソウの町だ。首都プラハの北東約九十キロメートルのところに位置するこの小さな町の名産は、ガラス工芸品、なかでもガラスボタンが有名なのだ。ガラスでできたボタンがあるなんて、ここに来るまで知らなかった。さすがにチェコでも、もう実用品として使われることは少ないようだが、工芸品として今でも作り続ける職人がいる。代々使われてきた金属製の型に熱して柔らかくしたガラスを入れ込み、花やリボンや蝶やトンボをモチーフにした立体を作る。そのあと、それに彩色を施して出来上がる。工房のひとつを訪ね、にこやかだけどいかにも食えなさそうなおじいさんにボタン作りを見せてもらった。鮮やかな手つきに目を奪われた。大胆かつ繊細な作業。セイジの通訳を介して技術的な質問をいくつもさせてもらったが、自分でしっかり聞けないのがもどかしかった。おじいさんは俺たちを気に入ってくれたらしく、特別に彩色の体験をさせてくれた上に、夕食までごちそうしてくれた。たっぷり五枚のホウスコヴェー・クネドリーキを添えたスヴィーチュコヴァー・ナ・スメタニェは娘さんの得意料理らしい。


「クネドリーキとは、発酵させたパンだねを蒸したり茹でたりしたものです。ホウスコヴェーというのは、ホウスカというパンを練り込んでいるという意味ですよ。スヴィーチュコヴァー・ナ・スメタニェは豚肉のスライスを添えたクリームシチューのような料理です。このクリームソースを豚肉やクネドリーキでたっぷりとすくい取りながら食べるんです。綺麗に、一滴も残さないようにね」


 俺が戸惑ったり疑問に思ったりしたことは、すぐにセイジが察し、てきぱきと解説してくれる。俺は嬉しくて誇らしくなる。うまい料理に絶品ビール、そして隣には、にこやかに笑うセイジがいる。


 今でもビールを飲むたびに、あの、からりと晴れた夏の日がよみがえり、爽やかな風が胸を吹きわたる。

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