第15話 コンパル

 実験室を出て一階へと階段を降り、正面玄関の脇に設置されている自販機の前で「ジュース? お茶? 紅茶? コーヒー? あん? コーヒーね。ブラック? カフェオレ? 甘いの? 温かいの?」と矢継ぎ早に聞きながら、温かい無糖のカフェオレと冷たいブラックのペットボトルを一本ずつ買った。スオウさんはこちらを振り返らずに歩いていく。

「どこに行くんですか?」

「んー? 西棟の踊り場」

 振り向きもせず、すたすたと歩くスオウさんの後を私は無言で追いかける。坐って作業をしているときには気づかなかったけれど、改めて見ると、スオウさんはかなり背が高い。腕も足もひょろひょろと長く、190センチを超えているヤマシロさんといい勝負かもしれない。中学生の時は同級生の誰よりも小柄だったと聞いていたのに、そんな面影はどこにもない。いったいいつ、こんなに大きくなったんだ? これはもう反則の域じゃないか? ヤマシロさんからのわずかな情報で作り上げられていたヨシアキくんのイメージは、小さくて、華奢で、きらきらした瞳の中学生なのだ。違和感にめまいがしそうだった。

 渡り廊下を渡り、理学部旧館の西棟に入ると、石造りの中央階段をずんずんと登り、最上階の五階のさらに半階上、屋上に出る扉のある踊り場まで上がった。その隅っこには、踏み台に見える小さな木製の腰掛けが三脚、置いてある。それをひとつ私のほうに押し出した。

「まあ、坐ったら?」

 そう言いながら自分も腰を下ろし、長い足をキリンのようにぎこちなく折り曲げる。私が坐ると、ほい、とカフェオレのペットボトルを手渡してくれた。スオウさんはパリパリとキャップを開けると、ぐびぐびと喉を鳴らしてコーヒーを飲む。その姿は立派なおじさんだ。寝ぐせのついたままの頭や左右で微妙に色の違う靴下など、身なりに無頓着なところも、おじさんっぽさに輪をかけている。でも、完全にそう思いきれないのは、においだ。スオウさんからは冬の陽だまりのような、無邪気で初々しいにおいがする。私がペットボトルを抱えたままスオウさんを凝視しているのに気づくと、薄いくちびるの端を上げて、楽しげに笑った。

「気づいてなかったの?」

 私はうなずいた。

「にっぶ。技官室の入口に、名札だって掛かってるだろ?」

「見てませんでした。だって、スオウさんはスオウさんだと思っていたから。名前……名前……スオウって、名字じゃなかったんですね」

「まあな」

「どうしてみんなスオウさんって呼ぶんですか? それに、どうしてヤマシロさんこそ、スオウって呼ばずにヨシアキって呼ぶんですか? 逆じゃないですか」

「ここで吉秋って呼ばれないのは、技官に秋吉がいるから。紛らわしいだろ? セイジがスオウって呼ばないのは、俺が嫌がったから」

「嫌がる?」

 スオウさんは眉をひそめてくつくつと笑った。

蘇芳すおうって、女っぽいじゃん? 今じゃ、どうでもいいけど、あいつと出会ったころは、いたいけな中学生でさ、自分の名前が嫌で嫌でたまらなかったの。もう、二十年以上も前になるけどね」

 そう言うと、またコーヒーをぐびぐびと飲んでから私を見る。よく光る瞳はまさに話に聞いていたとおりのヨシアキくんだった。喉の奥でくすぐったそうに笑う。

「コンパルちゃんよう、きみ、なんでまた、四十半ばも過ぎたおっさんと付き合おうなんて思ったわけ? 気にならないの? そういう趣味なの?」

 きらきらと輝く目に邪気はなく、素直な好奇心が真正面から私をとらえる。

 でも、とっさに思った。この人は、私を受け入れてないんじゃないか? だって、私はこの人からヤマシロさんの一部を奪ったことになるのだから。私は口を開くこともできず、ただ、すがるようにスオウさんの顔を見ていた。スオウさんはそんな私をしばらくまじまじと見つめ、ふっと目をそらした。

 ヤマシロさんの恋人たちに興味があった。でも、唐突に実体を得て現れた「ヨシアキ」くんは目が眩むほど力強い存在感で私の前に立ちはだかり、私は炎天下の棒付きアイスのように融け落ちて地面の染みになっていく。

「俺はさ、あいつの声に惚れたんだ」

 スオウさんは屈託のない表情で階段の下を見下ろしている。

「初めて会ったとき、なんて滑らかに響く声だろうって驚いたの。裸になってふわふわの毛布にくるまれたような気分だった。気持ち良くってさ、うっとりした。あいつがうちに来て、まれ――あ、うちで飼っていたネコね――と遊ぶとき、なでたり抱っこしたりしながら、その声で、まれ、まれ、って何度も呼ぶんだ。そのたび嫉妬した。まれじゃなくて俺を呼んでって」

「スオウさん」

 私は思い切ってスオウさんの顔を真っ向から見た。改まった様子に気づいたスオウさんはこちらに向き直り、ちょっと眉を寄せた。

「私が土曜日のヤマシロさんを奪ったこと、スオウさんは不快に思ったんじゃないですか?」

 穏やかな笑みが浮かぶ。

「コンパルちゃんも俺も『ポリアモラスなあいつ』の恋人だ。きみは俺からあいつを奪ってはいないし、そんなことはできない。そこは誤解しないで」

 その笑みがわずかに翳った。

「でもね、俺がセイジの恋人になったとき、俺は結果的に奪ってしまった。当時セイジには付き合っていた女がいたけど、彼女とはポリアモラスを告白しての交際じゃなくて、セイジと俺の関係を知ると、激怒して、離れていったから。

 それ以来、セイジは初めにきちんと契約を交わすようになった。ポリアモリストであることを告げるのはもちろん、相手との関係における互いの権利と義務を整理しておくの。そうすれば、関係はそう簡単に破綻することはないんだ」

「割り切れているんですか?」

 明るい声で笑う。

「受け入れてるよ。寂しいこともあったけど、あいつとのこの距離感が俺にはとても心地よいんだ。あいつのどこかに俺が不可逆的に根を下ろしているってわかったら、それ以上束縛する必要はないだろう?」

 にっと笑う。嬉しくなった。

「でも、いつ私がヤマシロさんの三番目の恋人だってわかったんですか?」

「ん? そりゃ最初に会ったときですよ。GC-MSジーシーマスの前で自己紹介してくれただろ?」

「名字を言っただけなのに?」

「きみの名字は珍しいからな。それに、手、出してみ」

 私が手のひらを差し出すと、スオウさんはそれを裏返し、隣に自分の右手を並べた。

「似てるだろ?」

 確かに、よく似たタイプの手だ。ああ、そうか、作業をするスオウさんの手元に目が惹きつけられるのは、それも原因だったのか。

 くっきりと骨の浮き出た手首から続く筋張った手の甲、手のひらは薄く、指は、やや骨太で、長く、まっすぐだ。ラテックスの手袋をぴっちりはめたように、薄い肌が滑らかな曲面を描いている。爪の形、皮膚の質感、それに指をぴんと伸ばすと軽く弓なりにそるところ。見れば見るほど、スオウさんの手は私の手に似ている。違いといえば、私の手より一回り大きく、指がさらに長めなことくらいか。

「セイジが好きなのは、手だ。コンパルちゃんも、トキワも、俺も、あいつのお眼鏡に適う、よく似た手をしてるよ」

「トキワさんって、ピアニストでしたよね?」

「ああ? おう、そうね」

「ピアニストとそっくりな手って思われるなんて、素敵ですね」

 スオウさんはおおげさにむくれてみせる。

「なに? 技術者にうりふたつな手じゃお気に召しませんか?」

 その子供っぽい反応に思わず苦笑した。

「私、ピアノって弾いたことないんです。経験ないものって、無条件で素敵に見えませんか? それに対し、分析装置のメンテやガラス細工は自分で経験したからこそ、無駄のかけらもなくしなやかに動く手のすばらしさを実感しています。そう言うことです」

 スオウさんは赤くなった。

「よかろう」

「トキワさんって、どんな人なんですか?」

「セイジとは異なるベクトルで真面目なやつ」

「スオウさんのベクトルとは?」

「――知りません。そういうことはセイジに聞きなさい」

 スオウさんは顔をそむけた。

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