【10.黒フサスグリのフルーツティー】 二〇一五年七月

第13話 トキワ

 小さなテーブルに向かい合わせに座ったセイジの右手が僕の左手をなであげる。羽根ぼうきで骨董品の埃を払うように、そっと。その手の動きに一度気づくと、そこから意識を引きはがすのは難しい。触れるか触れないかの接触が、僕の心をどんどん高ぶらせていく。声が洩れそうになる。

「ねえ、トキワ、トキワはヤナーチェクは好きですか?」

 まどかな声でおっとりとセイジが問う。そのあいだも止むことのない愛撫に僕は恍惚としながら答える。

「嫌いじゃないよ」

「ぼくは彼の『霧の中で』が大好きなんです。もしきみが嫌いでなければ、この指であの旋律が奏でられるのを聞いてみたいです。リクエストできませんか?」

 どんなに興奮していても、頭の芯は冷めている。たとえ僕が快楽に身を震わせていても、僕の心の奥深いところは僕の無様な痴態を指さしながらあざ笑っている。そう、たとえば――

 立ち上がる。雲の上を歩いているかのようなおぼつかない足取りでピアノに向かう。鍵盤にそっと指を落とし、体が傾ぎそうなほど艶めかしい旋律で部屋を満たす。

「フィビフの『詩曲』ですね。ぼくたちが初めて出会ったときに、きみが演奏していた思い出の曲」

 音もなくやって来たセイジが余韻を引き立てる深い声でつぶやく。

「トキワ、きみの『詩曲』には爛熟の翳りがないのですね。むしろ、恋を夢見る少女の生硬さを感じます。でも、こんな『詩曲』も趣きがあるものですね」

 ははは、見抜かれてるぞ、勝ち誇ったような高笑いが心の奥から聞こえた。僕は奥歯を食いしばる。


 僕はピアノ弾きだけど、演奏活動で生活できるわけではない。音楽教室に所属し、主に子供たちに演奏を教えながら、音楽教室のスタジオでのミニコンサート、街角での小さなコンサート、音楽ホールを借りての本格的なコンサートなど、ふた月に一回くらいの頻度で大小さまざまなコンサートを行っている。

 セイジと付き合い始めて以来、彼とは、水曜日の夕方から木曜日の朝までの時間をともに過ごすようになった。

 きざな表現だけれど、僕は空気と同じようにピアノを必要としている。ピアノから離れることはできない。常に時間を見つけて練習しなければならないことに加え、長時間ピアノのそばから離れることが不安でたまらない。僕が他人に堂々と自己表現できるのは、この手とピアノを介してだけ。手とピアノは僕の口でもあり声でもある。付き合い始めたばかりのころ、試しに何度かセイジの家に泊まってみたけれど、苦しくて、まるで酸欠の金魚のようになった。だから、水曜日はセイジに僕のもとに通ってもらうことになった。

 僕の部屋は小さな防音室で、その真ん中にグランドピアノが鎮座している。狭小のキッチンとユニットバスが言い訳程度についているが、ほとんどピアノ演奏のために特化された部屋で、僕とビアノの巣と言ったほうがいいかもしれない。そこにセイジを迎え入れるのは、なんだか胸が痛かった。セイジに対してなのか、ピアノに対してなのかはわからない。


 セイジがいようがいまいが、部屋にいるとき、僕はほとんどの時間をピアノと向き合って過ごす。セイジは水曜日の夕方にやってくると、しばらくピアノのそばに椅子を置き、そこに座って、ピアノを弾く僕を飽くことなく見つめる。先週はちょっと違った。来るなり、キッチンで何かやっている。最初気になって、ちらちらあいつの後ろ姿を見ながら手を動かしていたが、すぐに忘れ、ピアノに没頭した。ふと気づくと、少し癖のある甘酸っぱいかおりが漂っている。思わず手を止めた。

「トキワ、ちょっと休憩しませんか?」

 ピアノの音が止まったことに気づいたセイジがキッチンから声をかけてくる。僕は立ち上がってふらふらとキッチンへ歩いていく。

「何のにおい?」

「お茶です。黒フサスグリのお茶。先週末に入荷したばかりなんです。きっとトキワが気に入るだろうと思って、持ってきました」

 キッチンの前に置かれた小さなテーブルの上にティーポットと二つのカップが置かれている。セイジがティーポットを傾けると、びっくりするほど鮮やかな赤紫色が白いカップを満たしていった。僕は無言でカップを手に取る。煽情的な色が風変わりなかおりとともに感覚を強烈に刺激してくるさまは、真っ赤な頬の田舎娘がグラマラスな全裸を惜しげもなくさらして水浴びしているようだ。

「何考えてるの? こんなお茶を入れて?」

「どういうことです?」

「この色とかおり、華やかで個性的で、強引に精神を高揚させていく感じがする。演奏会前にはいいだろうけれど、今、こんなのを飲んだら、また僕がぴりぴりしてセイジを傷つけるようなことばかり、言いはじめるかもよ?」

 セイジは困惑した顔で笑った。

「辛辣な言葉をぶつけられるのは苦しいですが、でも演奏のプラスになるのなら、それは嬉しいですね」

 本気で言ってるんだろうか。すべてを受け入れたかのような表情と、悟ったような言葉に、すでに心を乱されそうになったが、抑え、お茶を飲んだ。

「――おいしい」

 顔をしかめながら吐き出した僕の言葉に、セイジがにっこり笑う。こいつは心の底から嬉しそうに笑う。月のようにさえざえとした笑顔。その笑顔に思わず右手を差し伸べながら、左手で自分の胸をかきむしる人間がいるなんて、こいつにはわからないんだろうな。そんな苦い思いをお茶で飲み下す。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 彼の言葉が終わる前に、僕はもう、ピアノに向かっている。アルコールを飲んだあとのような軽い酩酊感。ティーカップで暖められた指は滑らかに動き、いくぶん浮かれた音を作り出す。自分の単純さが嫌になる。

 荒れ狂う感情の波にさらわれるのに任せ、蠱惑的な誘いにすっぱりと身を委ねてしまえないものか?

 いつも、あと一歩が踏み出せないのだ。でもセイジがずっと僕のもとにいてくれるのなら、それも可能かもしれない。僕という木の幹が傾いでしまわぬよう全身でしっかりと抱きとめ、枝葉をしなやかに躍らせてくれるのなら、僕は嘲笑するしか能のない理性を征服し、凌辱し、より放埓に、よりみだらに音と戯れられるんじゃないだろうか。

 ふと気づくと、ピアノの右横の椅子にセイジが座り、僕を見つめていた。いや、僕の手を見つめていた。苦しくなる。でも手を止めることはできない。セイジが見つめ続ける限り、僕は手を休めることはない。


「柔らかくなでたり、がっしりと押さえつけたり、まるで抱きしめるかのようにふわりと両手を広げたり、拒絶してみせるかのように突き飛ばしたりと、その親密で細やかな愛情表現は、そばで見ているとつい嫉妬してしまうほどです」


 セイジがピアノに向かう僕を見つめて評した言葉だ。そうか、こいつにも嫉妬という気持ちがあるんだ、ちょっと愉快な気分になった。

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