8月20日
お盆休み最終日の前日、沢田は帰省先から戻るために乗合馬車に揺られていた。乗合馬車は飛行船や高速鉄道に比べれば格段に時間がかかるものの料金が格段に安い。貧乏暮らしの沢田にとって、これほど有難い公共交通機関はない。
「おっと、次の曲はクラリネトか。やったね」
暇潰しに聴いていたユンチューブからモツアルト晩年の名曲、クラリネト協奏曲が流れてきた。沢田はモツアルトが大好きだ。歌劇以外の曲は全て聴いたと言っても過言ではない。
ふと、沢田の脳裏にとある思い出が蘇った。2回目に西欧古典音楽の生演奏を聴いた時の思い出だ。
「あれは落胆したけどいい思い出だったな」
散々な目に遭った初めての生演奏鑑賞会から長い月日が流れ、モツアルト生誕250年の記念すべき年がやってきた。沢田は目を見張った。帝都において数日間に渡りモツアルトの演奏会が開催されると決まったからだ。
さっそくチケットを購入し夜行乗合馬車に揺られて帝都へ向かう沢田。チケットは数枚購入したが一番楽しみにしているのはクラリネト協奏曲だ。
クラリネト演奏は伯林公国の宮廷楽団で首席奏者を30年以上務めた巨匠カルライスタである。しかも会場は5000席ある大ホール。それをA席1500円で聴けるとあれば何を置いても行くしかない
「これは素晴らしい経験になりそうだ」
期待が高まり興奮を抑えきれない沢田。しかしひとつだけ気掛かりがあった。「0才からのコンサート」と銘打たれていたのである。もしや子供用のプログラムなのだろうか、そんな危惧を抱きながら沢田は会場へ入った。杞憂だった。着ぐるみのタヌキとか司会のお姉さんとか、そんな邪魔者は存在しないごく普通の有り触れた管弦楽のステージだ。
「よかった」
だがそうなると幼児たちが黙ってはいない。そもそも古典楽器の古典音楽を椅子に座って何十分も無言で聴いていられる幼児などほとんど存在しない。演奏が始まる前から会場は近所の幼稚園のような騒がしさだ。話し声、泣き声、喚き声、走り回る足音。演奏が始まってからも収まるどころかひどくなるばかり。名曲にまったく集中できない。
「うう、なんてこった」
名演奏を聴きたかった沢田は自分の浅はかさを呪った。「0才からのコンサート」と書かれているのだからこうなることは分かっていたはずだ。後悔の念に苛まれながら地獄の時間が延々と続いた。やがて第1楽章が終わった。パチパチパチと盛大な拍手。
「ああ、またか」
お約束の楽章間の拍手である。高等小学校の鑑賞会では仲間の無作法に恥ずかしくなったが今の沢田はもう落胆しか感じない。
「ん、何をしているのかな」
第1楽章が終わっても第2楽章が始まらない。指揮者と巨匠が顔を寄せてヒソヒソ話をしている。会場の騒がしさに呆れているのだろうか。
やがて話し合いは終わり第2楽章が始まった。ゆったりとしたニ長調のアダージョ。会場の騒がしさは相変わらずだ。そしてその楽章も間もなく終わる。また余計な拍手が入るんだろうな、と沢田は思った。
「あれ?」
終わらない。第2楽章が終わっても巨匠の演奏が終わらない。バックの演奏は終わっているのに巨匠のクラリネトはまだ音を響かせ続けている。そして音が途切れないまま第3楽章のソロが始まった。その意図はすぐわかった。
「そうか。楽章の切れ間で拍手が入らないように音を切らなかったんだ」
音が途切れなければ楽章が終わっても拍手のしようがない。第1楽章終了時に指揮者と話していたのはこれについてだったのだろう。巨匠の心遣いに沢田は感動した。そして悟った。これがライブというものなのだと。
会場の騒がしさを巨匠は呆れてなどいなかった。むしろ愉快に思っていた。だからこそ今日の観客に合わせた演奏をしてくれたのだ。
観客が演奏者を楽しむように演奏者もまた観客を楽しんでいる。会場の騒がしさを楽しんでいる。だったら観客も自由に自分を表現すればいい。感動すれば歓喜し拍手し、つまらなければブーブー言えばいい。古典音楽だからと言って遠慮することはない。泣き声、喚き声、話し声、そして演奏。それら全てをひっくるめてライブなのだ。
「きっと最初の演奏会でもそうだったんだろうな」
楽章間の拍手を恥ずかしく思っていた高等小学校時代の沢田。しかしそれは間違いだった。あの時の演奏者もやはり騒がしい生徒たちを楽しんでいたに違いない。珍しい観客に出会えて、指揮者の尻は困惑していたのではなく喜んでいたのだ。コンミスのお姉さんの視線は冷淡などではなく、
「騒がしいあんたたちのおかげでリハーサルよりリラックスして演奏できたわ。ありがとね」
という友愛に満ちたものだったに違いない。
沢田は巨匠に感謝した。新たな世界に連れてきてもらった気分だった。なにより「第2楽章と第3楽章が途切れないクラリネト協奏曲」という、これまで聴いたことがなくこれからもおそらく聴くことがないであろう演奏を聴けたことが本当に嬉しかった。
「ありがとうございます巨匠。お礼に売店で巨匠のCDを購入して帰ります」
こうして沢田はライブの楽しさに目覚め、それ以降足しげく演奏会に通うになった、と書きたかったのだがそうはならなかった。これ以降、沢田が演奏会に行くことは二度となかった。
「だってせっかく料金を払うんなら、雑音のない完璧な演奏を聴きたいじゃん。家でなら寝転んで酒飲みながら聴けるし」
ということである。きっと巨匠も呆れていることだろう。
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