8月19日

 お盆休み最終日の前日、沢田は帰省先から戻るために乗合馬車に揺られていた。乗合馬車は飛行船や高速鉄道に比べれば格段に時間がかかるものの料金が格段に安い。貧乏暮らしの沢田にとって、これほど有難い公共交通機関はない。


「おっと、次の曲はモツアルトか。やったね」


 沢田は暇つぶしにスマホでユンチューブの音楽を聴いていた。再生しているのは「西欧古典音楽の調べ」である。沢田は古典音楽が大好きだ。幼児から今に至るまでずっと聴き続けている。

 ふと、沢田の脳裏にとある思い出が蘇った。初めて古典音楽の生演奏を聴いた時の思い出だ。


「あれは恥ずかしかったなあ」


 沢田が高等小学校1年の時、その年から新たに始まった行事があった。音楽鑑賞会だ。全校生徒が音楽ホールに出向いて西欧古典音楽の名曲を聴くという、ほとんどの生徒にとっては実に有難迷惑な行事である。

 ピアノンやヴィオリンを習っている良家の御令嬢や御子息ならば古典音楽に多少の興味はあるだろうが、沢田が通っている公立学校の生徒で古典音楽に興味のある者などほとんどいない。喜んでいたのは沢田を含めて数十名程度だったと言っても過言ではないだろう。


「うわあ、1番前じゃないか」


 1年生かつクラスで1番背の低かった沢田の席は最前列だった。指揮者の尻も演奏者の表情もはっきりわかる。

 演奏が始まった。沢田は息を潜めて曲に耳を傾けていた。が、他の生徒たちはまるで違った。あちこちから聞こえてくる私語、あくび、笑い声、いびき、屁の音。朝礼で校長の長話を聞かされている時でさえこれほどひどくはなかった。沢田はなんだか申し訳なくてすっかり恥ずかしくなってしまった。しかしさらに沢田を赤面させる事態が発生した。


「ば、馬鹿!」


 こともあろうに第1楽章が終わった時点で拍手が起きたのだ。通常、楽章と楽章の間は音が切れる。興味のない曲を聞かされてすっかり退屈しきっていた生徒たちは、楽章の合間にある音の切れ間を演奏の終了と勘違いして拍手してしまったのだ。

 別に拍手は全楽章終了後に限るとか、感動し過ぎて拍手したくなっても演奏中はしちゃダメとか、そんな決まりはないのであるが、生徒たちの拍手は「あーやっと終わった。これで帰れる」みたいな倦怠感に溢れており、しかもなかなかやまないので演奏者も指揮者の尻もすっかり困惑してしまい、拍手が鳴りやまないまま第2楽章に突入した。


「うう、恥ずかしすぎる。穴がったら入りたい」


 それでも我慢して最前列で演奏に耳を傾け続ける沢田。第2楽章が終わった時点でまたも拍手。今度こそ終わっただろうと思ったのか先ほどより大きな拍手だ。もちろん終わっていないのでそのまま演奏が続く。第3楽章が終わった時点ではさすがにおかしいと思い始めたのか拍手はまばらになった。そして最終楽章が終わった時には、


「おい、何で拍手しないんだよ」


 ついに誰も拍手しなくなってしまった。静寂の音楽ホール。演奏者が立ち上がり指揮者の尻が向こうを向いてお辞儀をしたところでようやく拍手が起きた。その時、沢田は偶然コンミスと目が合った。まるで虫けらでも見ているような侮蔑と憤怒に満ちた冷やかな視線。


(ごめんなさい、ごめんなさい、お許しください)


 沢田は心の中で詫びた。別に沢田が謝る必要はないのだがそうさせずにはいられないほど、コンミスのお姉さんの表情はおっかなかったのだ。


「今となってはいい思い出だよな」


 沢田の初めての生演奏鑑賞は散々な結果に終わった。ちなみに音楽鑑賞会はその年で打ち切られ、来年からは映画鑑賞会になったということである。








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