第六章

6-1

 『嗜虐医カーシー』は、鼻をひくつかせて涙を堪えている。右の勝色かついろの翼を折られ不具となってしまったが、それでも滑空を続けた。夜は長くなりそうだ。夜気の穏やかな涼しさがなぜか、寒気を引き起こす。『ことなかれ主義者(ハシビロコウ)』のシビコは灰色の翼は無事だったが、足を射られ左足を引きずっている。


 アレガはオオアギと共に一団を率いている。赤鴉壊滅という大敗に混乱し、脳が焼けただれるような熱を帯びている。それは憤りとも、悲しみとも区別できない。ただ、はっきりと分かることは、ラスクを奪われたことと、ウロが死んだこと。


 ウロはアレガをかばって死んだ。アレガの母がしたように――。


 そのことが許せない。アレガはいずれ身体も成熟すればウロを仕留められると信じて疑わなかった。その標的が奪われた。ウロ自身の行動によって。


 闇夜は目を凝らして警戒し続けないといけないというのに、ウロの飛散した至極至極色しごくいろの翼が、眼前で何度も飛び散るような錯覚に陥る。


 足元をワニが走った。考えごとをしていると危なく噛まれるところだ。アレガはそれを易々飛び越えながら、頬を伝う涙を嘘だと腕で消し去る。今度はラスクの緑の光沢のある翼に思いを馳せる。今大事なのは、ラスクを救うことだ。とにかく、安全な場所で今後何から片付けるか作戦を立てないといけない。


「透明の洞窟でいいか? あそこなら水も綺麗だし、クワガタを埋めて保存している」


 土のような味のカブトムシよりもクワガタは断然美味い。あの隠れ家なら疲れを癒すことができるだろう。


 上空を滑空するオオアギは無言だ。ときどき、飛翔するたびに血が降りかかる。アレガはそれを了承と受け取り、怪我人のために黙って目的地へ向かうことにした。赤鴉は怪我でいちいち呻くのをよしとしない。


 透明の洞窟は、その名の通り透明な水が湧き出ており、洞窟内泉は深くなるほどに翠玉色すいぎょくいろが増す。洞窟の中は広く、十二名で休むにはいい場所だ。もうそんな大人数ではなくなったが。


 寸刻で拠点に到着し、アレガはオオアギの顔を副木で固定する。嗜虐医カーシーの右の翼に枝で作った添木を当てようとしたら、乱暴に奪い取られた。


「自分でやれるわ!」


 怒鳴るのはいつものことだが、すぐに表情が崩れて滂沱の涙を流した。嗜虐医が泣く姿など見たことのないアレガは、面食らう。


 嗜虐医が添木を取り落としたので、アレガは無意識に拾って渡した。余計なことをするとぶたれるのは分かっていたが、嗜虐医の取り乱し様に打ちのめされた。翼を固定しようとしたところ、嗜虐医が手で制す。


「お前にできやしないよ。尺骨が飛び出てるだろ? しなやかで折れにくい鳥の骨を折るなんざ、ニンゲンってのは厄介だね。もうあたしの右は使いものにならない。チチャを取ってきな」


 洞窟の木箱に保管しているトウモロコシの酒(チチャ)を嗜虐医に無言で渡す。嗜虐医は酒を煽ると、また咽び泣いた。少しして近くへ寄るように手招きしてきた。嫌な予感がした。ウロを失った悲しみは怒りとなって襲い掛かろうとしている。咎められ打ち据えられる可能性がある。いや、殺されてもおかしくない。


 アレガは自分の失態を恥じる。嗜虐医の暴力は理不尽なものだが、今日は耐えられそうな気がした。殺されるのなら今日のような失態続きの日なのだろう。


 今まで鳥になるための努力をしてきたが、結局はなれなかった。それだけのことだ。それが悲しいわけではない。亡母を偲ぶことに疲れるわけもない。ウロを自らの手で殺すという目標が失われた。ラスクを連れ去られた悲劇も重なった。それだけだ。


 ラスクを思うと胸が締めつけられる。アレガは単純に今死ねないと死に対して恐怖を抱いた。だが、嗜虐医の腕は伸びてくる。気づけば抵抗する暇もなく、がっしりと捕まえられた。


 ところがそれは拘束というよりは、アレガの手を優しく握るだけだったのでアレガは身構えた。いつもと様子が違う。


「しっかり握ってておくれよ」


 言うなり、嗜虐医は自分で自分の折れた翼を握力だけで捩じ切った。


 悲鳴とも怒声ともつかぬ声で嗜虐医は耐えていた。アレガの手は万力で締め付けられるように握られた。きっと、痣ができただろう。それでも驚きだったのは、嗜虐医が頼ってきたからだ。


 アレガは痛みで顔をしかめながら、手が解放されるのを待つ。嗜虐医は自分の半身ともいう勝色かついろの翼を地面に置いた。


「お前さんにやるよ。マントに必要だろう?」


 アレガは戸惑う。嗜虐医は自分でも柄にないことを言ったと気づいて、涙を溜めたままぷっと吹き出す。


「アカゲラとカラスじゃ似合わないかい? まぁいい、あたしの代わりにことなかれ主義者も診てやってくれ。そっちは足かい?」


 嗜虐医がアレガを完全に頼った。声音も高ぶりまともなことを言っているのに、まだ泣いている。嗜虐医にとってウロの方が娘のような年齢だが、やりきれなさに歯噛みしている。


 ことなかれ主義者シビコが上の空なのはいつものことだが、水を湛える透明な洞窟湖の底を見つめている。ゲジゲジがことなかれ主義者の足元を這っていた。ことなかれ主義者は気づいていないので、アレガはそれを今後の食糧にするために捕獲する。ゲジゲジはゴマや焦げたゴムのような味のする変わった食材になる。アレガはそれが逃げ出さないように殺して、食糧用の木箱に詰める。


 急にこんなことをして何になるのかと自問する。収集班も料理班も全員亡くなっているのに。アレガはまだ赤鴉の行動理念に基づいて行動してしまう。ウロ亡き今、赤鴉に所属する意味もないかもしれない。


 ウロならどうしろと言うだろうかと考える。逃げたきゃ逃げ出しなともよく言っていた。だが、同時にお前の生きていける場所なんかないよとも口を酸っぱくして忠告していた。


 それにニンゲンに属したいとも思えない。アレガと同じ種族であるニンゲンは、ゴホンの密林に飛行気球でやって来るなり赤鴉を攻撃した。盗賊よりも悪逆な暴力を振るった。不死鳥なんているかどうかも分からない鳥を探すために。


 ことなかれ主義者は自分で添木をし、アレガを待たずチチャで消毒までした。


「アレガ。ウロ様はもういないんだから、出て行っても私は文句はないわよ」


 ことなかれ主義者は嫌味もなく提案した。アレガは首を振る。嗜虐医カーシーはさっきまでの涙を頬や喉に伝わせながらゲラゲラと笑った。アレガを馬鹿にしたいという嗜虐者ぶりは忘れないらしい。


「出てけ出てけ。ウロ様がいないんじゃ、チチャも美味しく飲めねぇ。……違った。お前みたいなニンゲンがいるから酒が不味くなる……」


 とってつけたような物言いだ。嗜虐医が自由になることを勧めているようにも思えた。


「待てよ。俺が赤鴉を抜けるときは、自分で決める」


「馬鹿か。雛鳥は親鳥が死んだら死ぬしかないんだよ」


「なるほど、それでお前泣いてるのか」


「はっ。口幅ったいガキだね! オオアギ、お前さんも可哀そうだね。こんなガキの子守をこれからもするのかい?」


 オオアギは嗜虐医を息も絶え絶えの状態でも睨みつけた。


「その目、気に入らないねぇ! 年上には敬意を払いなオオアギ! いくらウロ様の両翼だからってね、ウロ様が死んだら赤鴉は終わりなんだよ!」


 自分で絶叫した嗜虐医だったが、そのことでウロを思い浮かべたのか顔を両手に埋めた。お頭と両翼の片割れ失った赤鴉に、明日はない。本当にそうだろうか――。


「待て、ラスクはまだ生きてるんだ」


 アレガはことなかれ主義者のように、力なく思ったことを口に出した。悲嘆に暮れるのは、ラスクの行方を知ってからでもいい。


「そうだ、お前ら。ラスクが不死鳥だってこと……知ってたのか?」


 嗜虐医は顔をしかめる。ことなかれ主義者に至っては、今知ったとばかりに目を見開く。オオアギは終始黙っている。


「オオアギは知ってたのか。なんで黙ってたんだ? ラスクは足を射られたんだぞ」


「あれは、銃って道具だ。射るんじゃない。撃つんだ……」


 まだ、口の端から血が滴っている。本当は喋らせることはまずい状態だが、この危機的状況の要因を知るのはオオアギだけだ。


 オオアギは寛解かんかいとはいかないまでも、少しづつ回復の兆しを見せる。半鳥人はとりわけ痛みに強く、骨折していようがなりふり構わないし、脳天を揺さぶられようが意識を留めておくこともできる。


「ラスクを守るだめだよ。あっしにでぎるごとば、ラスク本人にも不死鳥はいないって信じ込ませることだ」


 不死鳥の存在はどうやら知られてはいけないようだ。半鳥人はニンゲンの存在も不死鳥も隠したがる面倒な種族だと思う。


「じゃあ、ラスクは自分が不死鳥だってことを知らないまま拉致されたんだな?」


「不死の力は争いを生むだろう? 知らなければ襲われない」


「知らなくても襲われた。知らないから余計に酷い目に遭わされたんだぞ。あいつら足を狙ってた。不死鳥ってのは足で分かるのか?」


「あっしが知るかよ! ウロ様が全部隠し通せって命令したんだ。ラスクが生涯狙われ続けるなんて耐えられなかったんだろ」


 オオアギは血の混じった唾を吐いて、睨みつけてきた。


「黙ってたことを咎められる筋合いはないだろ? あっしはアレガ、お前じゃなくウロ様の命令で動く。これからもな」


 アレガはため息をつく。ウロの遺言を聞いたわけでもなし、どうしてここまで忠実になれるのか。いいや、男の酷い暴力に晒されて死にかけたところを拾われたオオアギだからだろう。オオアギだけではない、嗜虐医も元はエラ国の裕福な家の出だそうだ。木の上でなく、地面に杭を打ち込んで地盤を強化して木材の長屋を作るそうだ。十人ぐらいが住み込みで働き、エラ国に使える兵士を養うという。そんなある日、兵に暴力を振るわれたとか。嗜虐医のことだから腕っぷしで負けることはなかったと思う。だが、それでも手酷くやられ、女だからという理由で追放されたとか。エラ国は男尊女卑が蔓延っているという。


 嗜虐医に全員仮眠を取れと命令される。ちょうどアレガは、継続するふつふつとした怒りに疲労感が勝りはじめたところだ。ところが、オオアギが食ってかかる。「お頭様でもないくせに。命令すんな!」と嗜虐医と口論になる。ことなかれ主義者が早くも茣蓙ござの上で寝息を立てる。アレガもむしろを敷いて横になる。嗜虐医の声が大きくなり、ウロ様の代わりがオオアギに務まるわけがないとか、サギなんかがカラスを名乗るなとか、どうでもいいことをこじつけてそしる。赤鴉の解散は目前かもしれない。


 日が昇った。誰も動こうとはしない。朝食を夜明け前に探しに行く収集班のことなかれ主義者が動かない。命令するウロがいないので、誰も動かないのも当然か。いや、ハシビロコウだからか。みな、狸寝入りをして、誰が動くのかを盗み見ている。洞窟の天井から朝露の滴る音や、風に揺られて湖面が揺れる音などが聞こえるぐらい静かだ。


 オオアギは爆睡していると見せて、ときどき目をしばたいて誰も起きていないと分かると再び眠りに落ちる。いい加減やっていられないとアレガは思った。ラスクならきっと「アレガ行って下さい」というだろうし、この状況なら率先して出て行くだろう。


 アレガはことなかれ主義者の視線すら感じた。仕方がない、俺がみんなの朝餉を採取してくるか――。


「待てよ」


 オオアギが枕にしていた鍾乳石から頭を持ち上げている。眠気を感じさせないはっきりした口調で忠告する。


「ニンゲンがまだいるかもしれねぇよ。飯なんかいい。保存食のクワガタがあるだろうが。みんな朝飯ぐらい我慢できるだろ?」


 嗜虐医がずんぐり起き上がるなり胡坐をかく。


「誰にものを言ってんだい? 我慢? 聞き捨てならないね。食べなくても平気さ」


「一応、健啖家けんたんかのお姉様にも聞いとかないとな」


「うるさいよ。この非常時に食ってられるか」


 二人は罵り合っても自分の腰掛ける岩であったり、枕にしていた鍾乳石であったりから寄りかかって動こうとしない。それだけ心身ともに受けた傷は大きいのだろう。


 アレガは仕方なく手短に問う。


「今日の任務は何だ」


《ウロ様の亡骸を南の星に還す》


 二人の言葉が重なった。いや、ことなかれ主義者も閉じていた目を開いて天に向かって告げていた。


 アレガは苦笑する。自分もそうなるのではないかとどこかで予期していた。


「……お前ら赤鴉の鑑だな」


 得意げになるオオアギは上体を勢いよく起こして、非常食の詰まった木箱からクワガタを取り出す。それを見た嗜虐医は慌てて木箱ごと奪い取る。


 結局食べてから出発するらしい。いや、こういうときこそ栄養のある食事が必要だ。アレガは自分の番が回って来るまで辛抱する。いつもどおりの赤鴉だ。ウロが見たら豪快に笑うだろう。そう考える自分も赤鴉だなとアレガは目頭を指で押さえた。泣いているのか、笑っているのか自分でも分からない。ラスク奪還を急ぐためにも、やることはたくさんある。ウロを南十字星に還すことは葬儀の意味があるだけではない。半鳥人は死んでもいつの日か蘇ると信じている。ラスクが不死鳥なら、ウロはなおさらだ。アレガは不死鳥を信じていたわけではなかったが、ウロに頼りたい気持ちが勝った。

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