1-5

 火祭りなら、つい二日前に行われた。アレガはそのときのことを思い起こす。


 男どもが鳴き声で合図を送り合う。カシの木で作った硬い棒(バチ)を打ち鳴らし、威嚇するような怖い声で歌う。壮年の女たちは、赤と黄色の二色のヘリコニアの花や、赤、紫のブーゲンビリアを持ち寄る。水を漬け清め、水滴を村中に振りまく。二本の枕木にクスノキを平行に組んで作られた祭壇の周囲に、花を飾る。


 祭壇は、密林の中でも開けた場所に設置されている。そこは崖の影で日当たりが悪く、灌木しか生えていないので天然の広場になっていた。


 日が落ちたら未明まで祭りは行われる。子供は参加できないので、祭壇上で燃え上がる巨大な焚火の炎と火の粉が夜空を赤々と照らすのを、子供らは寝床の木の上で眺めるのだ。


 火祭りの夜の子供らの寝床は「寄り木」という空中役場の一か所に集められる。木造家屋で屋根はなく、バナナの葉で庇を作った簡素な造りだ。シルバルテ村の交流の場で泊まることは、一つの木に全員寄り添って眠る特別な日であるので、みな胸を躍らせる。楽しくて眠れない。


「早く寝なさいよ。男たちは大声で品のない歌を歌ってるんだから」


 母がそう虚ろな表情で呟く。眠気と戦っているわけではない。ほかに、寄り木には女たちも集まって、成人していない若鳥たちに悲し気な子守歌を歌って寝かしつけようとしていた。



   バニラの花を水分の抜けた手で集めて

   南十字星にかざして桶に入れて

   吹き荒ぶ砂嵐が来る前には

   お眠りなさい身体を休めて

   アロエを磨り潰して悲嘆にくれないで

   土を練っては器を造り

   おやすみなさい永遠を誓って



 雨が降り出しそうな旋律と、蒸し暑い歌詞が合っていないような不思議な歌だ。バニラの花は一日しか咲かない。見ることができたのなら奇跡だ。だけど、その奇跡を拝むためにバニラの周囲によく群がっているハチに刺されたくはないので、アレガには少し怖い歌でもある。


 水分の抜けた手とは、老人のことか。砂嵐がどういうものなのかアレガは知らないので、どこか遠い異国の歌に感じた。


 夜も風が吹かない。いつものことだ。男たちのがなり声と責め立てるような怒声を遠くに聞いた。


「あれ、本当に歌なのか?」


「そうねぇ。もう、みんな寝たわよ。早く寝ないとね?」


 母が前髪をなでつけるのでアレガは反射的に手で振り払う。


「恥ずかしいから」


「そんなこと言ってないで。ほら、母さんも一緒に寝ちゃおうかな?」


 寄り添う母の屈託ない笑顔はどちらが子供なのか分からない。アレガにはときどき、自分と母の血が繋がっていないことの方が信じられなくなる。


「ペレカさん。アレガは、見といてあげますから、火祭りに早く行って下さい」と二十代のオニオオハシの半鳥人が母の名を呼び、申し出た。母は村長の妻として出席しないといけないのだろう。


 オニオオハシはアレガを生まれたての小鳥のように見立てて、バナナの葉を被せた。


「これから賑やかになるから、眠れるうちに寝ましょうね」


 それは無理な話だった。アレガは遠くで聞こえる奇声と打ち鳴らされ続けるバチの音、焦げ臭い臭いを嗅ぎながら星々を見上げた。天の川が帯になって眩しい。星の見えない黒い部分を探す方が難しくて数える甲斐がある。あれって、アンコクセイウンと言うらしい。あの黒い場所を繋ぐと蛇になったり、蛙に見えた! バチの音が時間を追うごとに囃し立てるのも相まって、アレガは奇妙な興奮を覚えて、なかなか眠れなかった。


「み、み……」


 アレガは女カラスの詰問に、火祭りを見ていないと正直に答えていいものか悩んだ。どんな返しをしても殺されるに違いない。カラスの瞳は白昼だというのに、夜の闇のようだ。アレガは吸い込まれそうなその瞳から目を反らしたくてたまらない。だけど、反らした瞬間に太刀で首を斬り落とされるかもしれない。ひりひりと、肌から吹き上がる冷や汗が太陽で焼かれて蒸発していく。懸命に二人の亡親の断末魔を頭から追い出そうとする。鼻につく血の臭いや、母の投げ出された足を認めたくなかった。瞼が腫れぼったくなり、何度でも涙を塞き止める。


「返事の遅い小童は嫌いでな」


 無常にもアレガの首筋に太刀が振り下ろされる。


「見てない!」


 空気を斬る音。上瞼と、下瞼をきつく結んで自身の死さえ見ないようにした。首に触れる冷たい刃先を感じてまだ生きていることにアレガは気づいた。首の柔らかい皮膚に食い込んでいるそれは、滑らせただけで皮から血管、骨まで断つことができる状態のままだ。アレガの息が漏れてしまい、首にきりりと血が迸る。


「まあ、あんなもんを見る必要はないだろうがね」


 アレガに宛がわれた太刀がすっと離れた。だが、まだ頭上にある。アレガは下腹部が生温くなっているのに気づく。失禁していた。怖い。自分の意思と関係なく漏らすことなんて、雛の間だけだと思っていた。止まれ止まれと願っても、勝手に流れ出ていく。自分の小便なのに臭くて気持ち悪くて、恥ずかしい。


 でも、まだ生きている。悔しく思いながらも生に感謝する。まだ、なんとかなると自分に心の中で言い聞かせた。

 良識があるんだか、ないんだか。と女カラスが独り言を呟きながら太刀を鞘に納める。鞘の白い下緒さげおが揺れる。


「あたしゃ、小童を殺す趣味はないさね。恨みがあるのは大人どもだ!」


 汚物を見るような目つきにアレガは射抜かれる。アレガはよれよれと這いつくばって、移動させられた母の亡骸を見つめる。村人の遺体を一列に並べている。


 ここで逃げなければ、助かる望みはない。


「死骸なんざ気にしないで、さっさと行っちまいな! このウスノロの化け物め。あたしの気が変わらないうちにね。餓鬼どもは見逃してやってるんだよ。行かないんなら、煮て食っちまってもいいんだよ」


 アレガは四つん這いの姿勢のまま留まる。村を突然襲撃し、父と母を殺害したけだものが自分のことを化け物だと罵った。間違いなくそう言った。聞き逃すはずがない。アレガには充分な理由だ。笑っている膝を腕で引き寄せて奮い立たせる。胃を潰すほどの恐れは消え失せていく。頭を空白にさせる陽炎があちこちで立ち上る。昼を過ぎた丘では草が生い茂っているとはいえ、気温は上昇する。直射する日光は、どんな生き物でも日陰に行くべきだと本能で分かる温度まで達していた。


 女カラス率いる野盗共による悲鳴の雨は止まない。この丘ははじまりにすぎず、十数メトラムの距離でも聞こえる悲鳴は、村が壊滅状態にあることを示した。女カラスが踵を返したのを見て、アレガは反射的にその背に飛びつく。が、鞘が大振りに眼前で振られた。アレガの鼻はへし折れた。口にだばだばと入ってくる鼻血。悶絶しそのまま仰向けに倒れ、灼熱の太陽と向き合う。空が青ざめている。瞬きをすれば、瞼の赤い残像が明滅する。そこへ嘆いているように眉根を寄せた表情の女カラスが白い袖を振り上げた。手にした太刀の鞘が、アレガのみぞ落ちに槍のごとく突き刺さる。呻いた瞬間、胃液を吐いてアレガは意識を失った。

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