第二章

2-1

 十年の歳月の流れは、アレガにとって雨季の霖雨りんうよりも長いものだった。


 アレガは蔓につかまり、自身の身体を引き上げるようにして着実にカポックの木を登る。細い身体とは不釣り合いな三角筋、上腕二頭筋、上腕筋が節のように膨らんでいる。木のてっぺんに近い枝でアレガは一息つく。木々を登り降りすることはお手のものになったとはいえ、それでも飛べないという引け目が肉体を否応なしに鍛え上げたのだ。


 湿気で植物が湿っている。それが原因で手汗を少なからずかいているのではない。高さ三十メトラムのカポックの木を登頂したという喜びもあったからだ。枝葉の間から遠方を見通すと大きな川と森林が地平線の向こうまで続いているのが見える。シルバルテ村は、とてもジャングルとは呼べないほど生温い村だったのだと思い知って、もう随分と経つ。


 下を見下ろせば吸い込まれてしまうように感じる高さも、恐れることなく見下ろせる。


 群生するヤシ、蔓に巻かれたカポック、青葉の美しいドリアン、捩れたゴムの木、日差しで透かされた黄緑色の大きな葉を広げるバナナ、大木のあちこちに纏わりつく派手やかな桃色の蘭。それらが入り組んで、互いの場所を奪い合うように乱立する――ここはいつだってそうだ。アレガは自分も早く女盗賊団から抜け出したいと思い、標的の来る獣道を睨む。ここらはジャガーが生息するが、あれは夜に移動するので鉢合わせることはないだろう。


 アレガの栗色の目に汗が流れ込む。目が染みるのと、暑苦しいのとで、赤、白、黒のまだら模様の髪を鳥のように振り乱す。日焼けした小麦色の肌は太陽を退けるほどに、色素定着して健康的だった。左袖のない黒い麻の上衣うわぎぬをはだけていて、相変わらずの半裸の姿。小さな古傷の痕が絶えないが、血色はいい。


 母の赤い羽根でできたマントを大切に羽織っている。そのほか、母の尾羽もある。アレガは自身の頭に挿した一メトラムもある赤い羽根で風を感じ、追い風になるように身体の向きを変えた。


 足にはとある村で仕入れた革の長靴ちょうかを履いている。半鳥人の自由自在な足ではなく、速く駆けることをアレガは選択した。長靴の底から押し返される幹のもろさが足裏に伝わり、長居ができないことが分かると「これぐらい飛び降りてやる」と息巻いた。


 肩から紐を通してぶら下げていた立ち乗り用の板橇『一枚板橇』を足に固定して蹴る。木の幹から飛び降りた。


 枝の間隙をすり抜けて落ちていくアレガ。一度、木の幹に一枚板橇を蹴り当て、隣の木の枝に飛び移る。滑らかに一枚板橇を傾け、その木を滑り降りる。眼前には岩がある。アレガは、木から一枚板橇を蹴り離し、着地先をシダの葉が生い茂る場所に変更した。


 飛べないアレガの考え出した滑空方法は、一枚板橇で飛び降りることだった。


 標的は徒歩でやってきた。ジャガーがいないことで警戒を怠っているのか、はたまた水場を探しているのか。アレガは一枚板橇で、シダ植物を引き潰し、石を蹴散らす。穏やかな傾斜を選んで、膝を胸に引きつけ体を小さくし、倒木を飛び越える。


 標的の真上の低い崖に出る。この付近で一番高いカポックから飛び降りたのだ。奇襲をかけるには、速度が重要だ。半鳥人の男が、草木を蹴散らして迫る一枚板橇の摩擦音に気づいたときには、もうアレガは男の真上に出た。


「アカゲラ?」


 身長、体格共にアレガと同じぐらいの青年だ。年の頃三十半ばといったところか。訝し気にアレガを見上げている。水色の長髪と黒い翼を持つターコイズサザナミインコの半鳥人だ。アレガは他の半鳥人と同じように、羽や足の色で相手が何の鳥の半鳥人なのか見分けがつく。


 一枚板橇で突っ込む。足裏を使って板をコントロールし男の頭部を殴打、そのまま転倒させる。一枚板橇は足裏から弾けとんだので放棄し、着地。安全のため、無理な衝撃を与えると足から外れるようにしてあった。


 着地するなり、常に帯している二本の棒を一つに組み立て、一本の二股の槍を展開した。赤い柄に黒い刃のそれで男の取り落としている布袋の結び目を突き刺す。顔をしかめて転がっていた男が、血相を変えて騒ぎ出した。


「それを返せ」


 アレガにとって半鳥人を襲い、物を盗むことは今日が始めてではない。女盗賊団に無理やり覚えさせられた。手の届く範囲のものは盗んでもかまわない。ほかの鳥のものを奪うことは町に行けば違法だが、食に窮したときは強奪してでも食べて生き残るべきだ。初めこそ嫌だと思ったが、今はそう思う。何がなんでも生き延びる必要があると。


「王都で稼いでんだろ? 絹のチュニックなんて着やがって。中身は金貨何枚だ?」


 アレガは布袋に刺した槍を抜く。その瞬間に男が足にすがりついてきた。アレガは振り払うが、男は杖を取り出し、アレガの足首に打ちつけた。相手は、無意識の行動だったが、革製品である『長靴ちょうか』そのものを殴ったことで顔をしかめている。多くの半鳥人は革製品に馴染みがない。皮鞣し職人は、いるにはいるが動物の糞尿を扱うので嫌われている職業だ。まして、半鳥人とはいえ鳥だ。アレガは猛禽類のハクトウワシであった父イグが、肉を食すところを見た以外に肉を食う種族を見たことはない。半鳥人の主食は木の実、果実、昆虫類だ。肉を捌くことそのものが忌み嫌われる。


 革素材を纏うアレガが奇異に見えるのは当然だ。


 男は恐ろしいものに触れたと思ったらしい。アレガは憤慨する。


「っち。また、そんな顔しやがる。足がお前らと違って悪いのかよ」


 自分一人だけが何らかの間違いで翼を有しておらず、裸足で歩けば石で足が傷つくような柔らかい皮膚で覆われているのは十分理解しているが、自身の肉体が疎ましい。素直に殴り合いに持ち込んで負けた方が、傷つきはしなかっただろう。


 アレガは男の手を蹴り、布袋をひったくる。重いが、布の擦れる音は硬貨のそれではない。


 標的を誤ったと、瞬時に罪悪感がアレガの脳裏を駆け巡る。さらに悪いことに、袋内から獣の血の臭いがする。半鳥人はよっぽどのことがない限り、陸の動物を狩らない。猛獣は狩りの対象ではなく、危険を回避するため、襲って来る気配があればやられる前に倒すだけだ。その皮でどうこうするのは、ジャングルに住む半鳥人ではなく町を形成して生涯その小さな集落で住まう者たちだろう。


 アレガは慌てて袋を開く。鼻を突く血の臭いから予想されるとおり、中には悍ましい血糊と、肉が入っていた。危うく目を逸らしかけたのは、その肉が半鳥人の足と半鳥人の翼であると分かったからだ。


「同族狩りだと?」


 半鳥人を殺すことは町では犯罪。密林内でも禁忌とされる恐ろしい所業だ。アレガの声は震えたが、見咎められた男もアレガの容姿を頭からつま先まで確認し、わなないている。


「お、お前こそ。と、と、鳥じゃないじゃないか! 化け物め! まさか、こんなところにいるなんて。その足は……。つ、翼も偽物だろう? やっていることは同じじゃないか!」


 アレガの顔にさっと怒りが差す。


「同じなわけないだろ。俺はお前を気絶させて奪うつもりだった。殺す気はない」

「袋を返せ化け物!」


 少なからず心を痛めたアレガは反応が遅れる。布袋を取り返されて逃げられた。


「あ、待ちやがれ!」


 同族殺しは大罪だ! アレガの所属する女盗賊団のお頭のように。


 アレガが土を跳ね上げ駆け出したとき、つま先の僅か数セントリの先に短剣が刺さった。


「深追いしたら駄目ですよ、アレガ。お母様が教えて下さったでしょう?」


 崖の上で今しがた短剣を投擲したカラスの女がいた。半鳥人の女盗賊団『赤鴉あかがらす』の一人がお出ましだ。


 緑の光沢を放つ黒い翼で羽ばたき飛び降りてきたのは、赤鴉のお頭の娘、ラスクだ。アレガよりも二つ年上の女性で、カラスの半鳥人だ。


 半鳥人の肌は熱帯気候でも太陽の影響を受けないとはいえ、ラスクほど白い肌の半鳥人はいない。このワルミン川流域の白い砂浜を彷彿とさせる血色の良い白さだ。


 足は当然、カラスの黒い足だ。短い髪も黒く艶やかだ。


 青い首巻きをしており、黒の乳押さえに丈の短いズボンと少しばかり刺激的な装いをしている。


「ラスク、待ってくれよ。あいつは同族狩りしてんだぞ!」


 アレガはラスクを前にすると、自分の言葉が言い訳がましく聞こえる。


 仕事ぶりに文句があるのか、低い身長が不利にならないよう、わざわざ高い岩場に足を乗せてアレガを見下ろした。実際はアレガより十セントリ低いのだが。かといって、小生意気ではなく、慎重に動く草食動物のようなしなやかさもある。


 長時間同じ場所にいたのだろうと、アレガは察した。つまり、気配を消してずっと監視していたのだ。後で本隊と合流したら、お頭に報告するのだろう。アレガはあからさまに唇を曲げる。


 お頭のババアを許したことはこの十年一度だってない。こんな雑用を押し付けられるのを耐えているのも、ババアを殺す機会があるからに他ならない――。


「冗談ですよね? 私たち赤鴉よりも恐ろしい鳥がいるんですか?」


「いたから言ってんだろ。怖いんじゃない。許せないって言ってんだ。追いかけるぞ」


 アレガは鼻腔を広げて憤る。赤鴉がシルバルテ村を焼き払い、両親を殺したことを許すわけがない。だが、それと同じように同族を殺すという行為自体も憎かった。


「いいえ、お母様に報告をします」


 同族殺しをみすみす見逃すなんてどうかしている。半鳥人の部族はいくつか見て来たが、掟に差はあれど、必ずどの村も厳守しているのは、同族狩りは禁忌であり、裁かれる対象であるということ。赤鴉も裁かれろとアレガは常々思っているが、いくら願っても叶わないので、自分でお頭には復讐しようと思っている。


 シルバルテ村を襲って以降、つまりアレガが赤鴉に組み込まれてからは、盗賊団の誰も窃盗はすれど殺しには手を染めていないのを知っていてもだ。


「みすみす同族狩りを見逃してたまるか」


 ラスクの紫の神秘的な瞳を睨みつけるアレガだが、途端に視線を外したくなる。同族狩りの追跡など、任務ではありませんとラスクが言うのを恐れた。


「凶暴な動物の多いこの奥地へ、一人でやってくるのはおかしな話ですよ。敵は一人ではない可能性があります。深追いは危険だと判断してるんです」


 頭ごなしに否定されなくて良かったとアレガは安堵する。赤鴉は嫌いだが、ラスクのことは嫌いになれない。寧ろ、最近気になっている。ラスクは赤鴉にとって最善の行動を取る。


 お頭のババアから与えられたこの任務は、本来一人でこなさなければならないのに、監視という名目で実は心配して着いてきてくれたのかもしれなかった。


「それに、あれは王都ステラバの神官でした」


「そうか。あいつ、神官だったのか?」


 アレガは神官を初めて見た。


 なおさら、許しておけないとアレガは思う。一線を越えたならば冥土に送られる。太陽神に仕えるその身で、罪を犯すなど理解できない。シルバルテ村での父イグの尊敬を集める姿を反芻すると、イグの翼に触れるだけで健やかな暮らしを営むことができると信じられていた。父は村を代表し、日中の一番暑い日の高く上がる時間に空中役場でボンボ(大太鼓。革製品を嫌う半鳥人だが、生贄のリャマの残った生皮で作る)を打ち、柔らかな音色を太陽神に捧げていた。自分を嫌う父ではあったが、多くの村人が町の中心部から鳴り渡る音に心和らいでいた。


 一方、神官は村ではなく、町単位の集落における権力者だ。町ではアレガの知るような木の上の営みは行われておらず、地上に降りて町を形成し田畑に果実を栽培するのだ。そこで、トウモロコシを磨り潰した粉を大地に蒔き、太陽神に豊穣を祈るのだという。だから、神官も村長のような役目があると思っていた。


 拳を握りしめて駆け出すアレガ。ラスクが足の指を掌のように使ってアレガのマントをつかむ。


「離せよ。あいつを焼き殺してやる」


「口の悪い。焼くことは禁忌ですよ」


 諫められても、アレガは悪びれない。寧ろ眉を吊り上げる。


「お前らのがうつったんだぞ」


「違いますね。私はお母様の命令口調も、お姉様たちの理不尽な物言いもうつっていませんので、あなただけです」


 ラスクはもっと深いことを言おうとして、やめたと顔に呆れ顔を浮かべる。


「……俺は育ててもらった覚えはないからな!」


 遠慮気味に言った。お頭のババアが目の前なら平然と言ってのけられるこの言葉が、ラスクに言うのは後ろ髪引かれるのだ。


 アレガは足で小突かれた。ラスクの足は鳥というより恐竜並みの太さと筋力があるので、爪が尻に突き刺さって痛い。


「さぁ、雛鳥は修行が足りないということが分かりましたので、帰りますよ」


 ラスクのあっけっらかんとした表情に、アレガは額に癇癪筋を浮かべる。


「雛扱いすんな。奇襲そのものは成功しただろうが。合格だろ?」


「いいえ。神官に手を出したのは間違った判断です」


「金目のものを奪うときにはためらったことないくせによく言うよな」


「私は仲間のために盗んでいると何回も言ってますよね?」


 ラスクは本当に赤鴉のためだけに働いて、毎日楽しいのだろうかとアレガは懸案にしていたことを思い返す。


「アレガ、今は早くここから離れましょう。おそらく神官は複数人でここを訪れているはずです」


「そもそも、なんであいつが神官だって分かるんだよ?」


「杖を見ませんでしたか? 持ち手の丸みから、あれは神官が持ち歩く聖木の杖と考えられますからね」


 アレガは釈然としない。反抗的な視線をラスクに向ける。


「異例のことだと思いませんか? 今やこの広大な密林の十八分の一は女盗賊団『あかがらす』の縄張りですよ。悪名が轟きつつある赤鴉の縄張りに、それを分かった上で往来しようというのなら、余程の理由と覚悟が必要です」


 それもそうだ。縄張りの面積は三十七万平方キロメトラムほどで、巡回するのに半年かかる。


 草木の焦げる臭いがして、アレガは振り返る。白くくゆる煙が樹木を霞ませているのを見る。


「密林で狼煙のろしを上げた馬鹿がいるぞ!」


「森林火災かもしれません。いずれにしても、ただごとじゃないですね。行きますよ!」


「ウロに報告はどうする?」


「お母様の本隊は川向うです。呼びに行く時間はありません」


 アレガとしては、最初からウロに頼るつもりはない。泣きついたと誤解されて、みなに笑い者にされるのがおちだからだ。それより優先すべきは火元を調べること。斥候班として、調査は必須の任務だ。一度火がついたら手に負えなくなることも分からない輩は、遠方からの闖入者に違いない。


 ラスクは羽を羽ばたかせて滑空する。アレガは引き離されないよう、下り坂は一枚板橇を駆使して滑り降りる。


 獣道が開けて、煙の立ち昇る野営を見つけた。鳥の四本指の足跡があちこちに点在する。ラスクが木と布で作られた天幕から出火しているのを見つけ、かき集めた土で消火し始める。アレガは周囲を警戒しつつ、天幕の内部で焼け残っていた埴輪を発見する。手の部分が翼になっている。処分するならば簡単に割ればすむ代物が、どういうわけか焼かれていた。


「気味悪いな」


 自分たちの姿を焼いているように見えるそれは、呪いの儀式にも見える。鳥は火に焚べるべからずだ。


「早く、こっちを手伝って下さい」


「言われなくても分かってる」


 アレガも両手で土をかき集め、火に叩きつける。時間はかかったが、二人がかりで鎮火させることに成功した。手は煤だらけだ。アレガは厄介事に苛立つ。もし、マントで鎮火せざるをえなかったならと思うと冷や汗ものだった。


 アレガの黒と白の前髪から後ろの赤い髪まで、風が通過する。頭上を過ぎる翼。相手は素早い。


 アレガに目もくれなかったそれは、ラスクの膝に向かって巨大な鎌を振るった。アレガはほぼ同時に前かがみになり、ラスクの胴を抱きかかえて跳躍する。危うく靴底を刃がかすめた。


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