1-4

 雲が太陽を隠した。母の口元が真っ赤に滲んでいる。母の背から腹を刃が貫通して、アレガのマントのすんでのところで止まっている。


 母の桃色の唇が紫に変わった。吐かれる吐息。吸い込む度に、喉で詰まっていく。


「私を、ゆ、る、し……て。母さんのあげた、気球を……」


 突然、何を言い出すのかとアレガは混乱する。ただ、これが母の最後の言葉になるとは、認めたくなかった。


 アレガはいつもズボンのポケットに木彫りの『飛行気球』を入れて持ち歩いている。


 取り出して母に見せる。笑ってくれた。


 鳥や虫以外に、空を飛べるものだという。卵の形をして、扇状の尻尾が三枚ついている。母が尻尾じゃないのよと教えてくれたことがあったが、じゃあ何かと聞けば、「さあねぇ」と首を傾げただけだった。


 母が飛行気球を握るアレガの手の甲に、指を重ねる。包み込んで、懇願するかのようにかげった太陽を仰いだ。アレガも真似する。太陽神のンティラ様。助けてくれるよな? どうして守ってくれない――?


 風邪をひいたときには母が祈ってくれた。祈りは強く願えば届くと言った。ただ、届かない願いがあるとするならば、何を願うかを間違えているのだとも。


「ごめん……ね」


 どうして謝るのか理解できない。押し寄せる感情の波のせいで涙を押しとどめられなかった。周囲を顧みずに声を上げて泣いた。


「こで…………レガを拾ったのよ……。……ア……ガが持ってた。母さんがあげたんじゃ……ないの。ごめんね。嘘ついて……。あなたは……これを」


 か細くなった母の声はよく聞き取れなかったが、飛行気球は母さんがくれたものではないということがなんとなく聞こえた。じゃぁ、これは一体どこから。


 白装束の女カラスがさらに二歩歩み寄ったので、アレガの涙は枯れた。慟哭することさえ許さぬような冷え切った視線を浴び、首を刎ねられ、胴を斬り、腹を突かれるに違いない。


 母はアレガの上に倒れる。アレガが呻いたのは、のしかかる大人の体重を支えられなかったからではない。母が動かなくなったことに狼狽えた。


 母の薄緑のスカートをかきわけて這い出たアレガの目に、太刀が降ってくる。アレガは身を縮めた。息を止める。まだ降りてこない死。


 父が死んだこと、母が死んだこと、そして、自分の番が来たことに絶望する時間はあるかどうか。アレガはじらされる刃に唇を噛む。その瞬間を早く来いとこいねがうほどに、目を閉じて待つ。恐怖で嗚咽を漏らす。


「お頭様ぁ! シルバルテ村を包囲したよー。」


 カラスのほかにオオアオサギの女半鳥人が飛び降りてきた。


 オオアオサギの赤褐色の長い足がアレガのすぐそばにある。土を踏み鳴らして、小気味良く体を揺らしている。黄土色のズボンに、紺色のポンチョを被っている。青灰色の翼が美しい。前髪は黒く、そのほか横髪と後ろ髪は白い。いたずらっぽい笑みをアレガに投げかけるので、アレガは腹の底にふつふつと湧き上がる怒りを感じた。


 現れたのはこの女だけではない。カラス、ハシビロコウ、クジャク、スズメ、シマエナガ、ライチョウ、などの半鳥人が、上空を飛び巡る。


 村はここからでも見える。森林に溶け込んでいる寝床が大きな篝火かがりびに見えるほどに燃え上がった。


「勝手な真似はおよし。誰だい。あっちの広場に火をつけた馬鹿は。あたしゃ、用があるのはここの村長夫婦だよ!」


 カラスの見た目の妖艶さとは裏腹に、年を重ねた女性の横柄な物言いが怒声となる。アレガはその理不尽な声に打たれて、再び涙がせり上がるのを感じた。声を上ずらせて咽ぶ。


 ひょうきんな調子で、オオアオサギの女が火の方角を見つめる。


「お頭様、あっしより先に誰かが火ぃつけちまったみてーだ。祭壇以外は燃え移らないようになってるみたいだけど、言って止めてこようか。そのガキはどうするんで?」


 お頭と呼ばれる女カラスの白い着物の彼岸花は、どす黒い返り血で塗りつぶされて見えなくなっている。


 転がっている父の頭、母の亡骸。アレガは、その亡き両親の淀んだ瞳が潤いを失っているのを見た。


 母が引き離される。思わず、アレガは母の乱れた赤い髪を見る。艶が失われている。この僅かな間に、顔は白くなった。眉間に皺が寄り、苦悶に歪む唇は紫色に変色している。


 村民の亡骸を一か所に集めているようだ。いつの間にか周囲の悲鳴は聞こえなくなっていた。子供達は散り散りになり、大人はみな息をしていない。


 にじり寄る黒い足。アレガは堪らず、這いつくばって逃げ出す。途端、背を女カラスが足蹴にする。


 声が出なかった。息をするだけで殺されると思った。


「命乞いの一つでもしないのかい? 小童」


 アレガの頭は途端に真っ白になり、背中に刃が触れている冷たさを感じた。実際には、まだ何もされていなかったが、背中は自身の吹きだす汗の粒が結びつき涙のように流れはじめていた。


「こりゃなんだい。変わった生き物だね。まさかカエルの子じゃあるまいね?」


 女カラスがアレガの背中から噴き出す汗をカエルと評した。アレガはそのことで何か言い返さなければと思ったが、強く反発しようとするほど震えて上顎と下顎がかちかち噛み合う。


「返事ぐらいおし!」


 蹴られたアレガは息が詰まったまま転がされた。


「命乞いをすればいいんだよ! それともお前は口も利けないカエルなのかい?」


「ぼ、ぼくは鳥だ……」


「そんなことはどうでもいいさね! 鳥だろうがカエルだろうが、殺さないで、助けて下さいと泣きつけばいいんだよ!」


 アレガは鳥とカエルは全然違うと思ったが、自分も半鳥人と何だか似ていない気がして上手く言葉にできない。今度はさっきより強く脇腹を蹴られたのでアレガは情けなくも命乞いをしてしまった。


「た、だずげてぐださい」


 痛かった。今朝食べたカメムシを全部吐き出しそうになった。酷く情けなく思ったが、堰を切ったように大雨並みの大粒の涙が頬を伝う。自分の握り締めた手が震えていることに気づいたら、腕まで震えてきた。女カラスはアレガの背を踏みつけアレガが腹這いにならねければならないようにして、退路を断つ。アレガは無意識とはいえ、震えることもやめてしまう。草と土に顔を埋めてしゃくりあげる。まだ命がある――。そのせいで時が過ぎるのを遅く感じるのかもしれない。


「祭りを目に焼きつけておったか、小童?」


 女カラスの問いには瞬時に答えることができない。女カラスがこの殺戮のことを祭りと呼んだことに膝から下までわななく。


 奇妙な足に気づいた女カラスが何をするのか分かったものではない。何のためらいもなく父と母を殺した女カラスが、鳥ではないアレガを見逃すはずがない。そのはずだった。


「火祭りは見たのかと聞いておるのだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る