「永昌記」にみる甑のまじない
実際に平安時代に行われた甑のまじないの記録を見てみよう。
長治2年~大治4年(1105 ~ 1129)の間に藤原為隆によって書かれた「永昌記」に甑のまじないが記述されている部分がある。
当時は院政が行われていた時期にあたり、公家に代わって平氏が力を拡大し始めた時代だった。「永昌記」にはその時代に宮中で行われていた儀式や行事の記録が残されている。
「永昌記」の天治元年(1124)五月二十八日の条に甑のまじないの記録が見られる。
甑のまじないが行われるのは出産時である。この日、出産に臨んだのは鳥羽上皇の中宮藤原璋子だった。璋子が産気づいたのは夜が更けた戌の刻のこと。僧侶や宮司、陰陽師が絶え間なく加持祈祷を行い、有力な公家も続々と鳥羽上皇の元に集まって来る。
――子剋皇子降誕 藤中納言申殿下云 御産遂了者 大夫属宗房奉仰團甑御所上 大夫能俊卿又被申云 御産成了 皇子降誕也
子の刻に王子が誕生し、藤中納言が御産があったことを皆に知らせた。その後に大夫属(中宮大属)の宗房という人物が御所の上で甑を転がしたと報告し、最後に中宮大夫である源能俊が御産が終わって皇子が誕生したことを改めて皆に告げている。
皇子が誕生した後、璋子から後産が下りなかったのだろう。
後産が下りるよう祈りを込めて御所の屋根の上から甑が転がされ、甑のまじないは速やかに効果を顕した。源能俊による「御産成了」の宣言は、後産が下りたことを確認した上で行われたものである。
当時の人々が、皇子の誕生だけでなく後産の排出があって初めて出産が成立すると認識していたことを「永昌記」の記録は伝えている。
この時に藤原璋子が産んだ鳥羽上皇の皇子は、後に崇徳天皇となった。
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