「山槐記」「徒然草」にみる甑のまじない
他の文献資料にも甑のまじないの記述がある。
「山槐記」は平安末期の公卿である中山忠親が記した日記である。
「山槐記」の治承二年(1178)十一月十二日の条には高倉天皇の中宮である
早朝の寅の刻から始まった御産は昼を過ぎ、羊の刻に皇子誕生の報せが出された。この後に母屋の屋根から
――此間自白日陰間上轉破三分
まず召使が甑を持って母屋の棟に上がり、北側に甑を落としたが十分に壊れなかった。このため
皇子誕生の報せのあとに行われたこのまじないは、後産が下りるのを祈る甑のまじないであることは間違いないだろう。甑のまじないが功を奏し、母子無事に出産を乗り切った。この日の内に臍の緒が切られ、二日後には産湯と胞衣納めの儀式が行われている。
平徳子が産んだ皇子は、後の安徳天皇である。
平安時代の末期まで甑のまじないが行われていたのは確からしい。
だがその後、このまじないは廃れていく。
前に平安時代に米を蒸すための調理器具が変化したことを紹介した。
儀式に用いる米を蒸すために使われていた甑は、大陸からやってきた
もう一つ、甑のまじないについて書かれている資料を紹介しよう。
鎌倉時代に吉田兼好によって書かれた随筆集、「徒然草」である。「徒然草」の第六十一段に、甑のまじないについての記述がある。
――御産のとき甑落とすことは、定れることにはあらず。御胞衣とどこほる時のまじなひなり。とどこほらせ給はねばこのことなし。下ざまより事おこりて、させる本説なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に、賎しき人の子のうみたる所に、甑落としたるを書きたり。
御産のときに甑を落とすというのは決まり事ではない。胞衣が滞るときのまじないである。胞衣が下りてくればこのまじないは行われない。下々の民が始めたことで由来は明らかではない。大原の里から甑を取り寄せる。古い宝蔵の絵に貧民が出産のときに甑を落としたことが書いてある。
甑のまじないが胞衣を下ろすまじないであり、庶民が行うものであると吉田兼好は述べている。彼の身分では宮中の行事をうかがい知ることはできないだろう。だがこの「徒然草」以降、文献から甑のまじないの記録は見られなくなる。
米を蒸すための土器の甑が木製の蒸籠へと変化した。国内の文化が成熟した時代に大陸からもたらされた蒸籠は、もはや呪力を持たない道具だった。木製なので落としても割れることはない。
甑のまじないは中世以降に姿を消したと考えられる。
では、胞衣を下ろすまじないの需要はなくなったのだろうか?
実は甑のまじないに代わる信仰が新たに生まれてくるのである。
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