コメと甑

 日本のコメは、絶え間なく行われた品種改良によって伝来した当初のコメから次第に性質が変化していった。


 伝来した当初のコメは、ぱらつきのあるコメであったと考えられている。

 このコメを美味しく食べるには、たっぷりの湯で長時間煮て十分に水を含ませる必要がある。したがって弥生時代に米の調理に使われたのはかめの形状をした土器だった。


 甕で茹でた米はしばらく放置し、蒸しの工程を加えていたともいわれる。

 当時のコメは調理をしても現在のコメのような粘り気はない。このコメを弥生時代の人々は手ですくうように、手づかみで食べていたと考えられる。


 ぱらぱらのコメを盛ったのが高坏とよばれる土器で、食事をする家族あるいは仲間うちで共有の食器だった。弥生時代の人々は、それぞれが高坏に盛られた米を手づかみで取り食べていたのである。


 しかし日本で栽培されるコメは次第にもっちりとした粘り気を持つようになる。


 このようなコメをたっぷりの湯で煮てしまうとすべてがお粥になってしまう。

 このため米の調理法には水蒸気で蒸すという方法がとられるようになった。


 そのコメを蒸すための土器が、こしきとよばれた底に穴が開いた土器である。

 水を入れた甕の上に甑を重ねて火で加熱すると、甕の水が水蒸気となって甑の底の穴から甑の中へと導かれる。この水蒸気で甑の中に入っている布に包まれたコメが蒸されるのである。


 甑は古墳時代になると日本全国に出現するようになる。

 この時代、日本のコメは現代に通じる米としての性質を獲得したと考えていいだろう。さらに、蒸すという調理方法はうるち米だけでなく米の調理も可能にした。


 もちもち食感の粘り気のあるコメを我々の祖先は特に好んだのだろう。


 粘り気のあるコメは米粒同士がくっつくので、箸を使って摘み取ることができる。

 古墳時代以降、コメは個人の食器に盛られ、箸を使って銘々に食べる文化が広がっていくことになる。


 さらに平安時代以降になると鉄器が日常の道具にまで普及するようになり、土器の甑に代わって鉄製の羽釜が登場するようになった。鉄製の羽釜は煮る過程と蒸す過程を連続して行えるため、よりふっくらもちもちのコメの調理が可能になった。


 そして平安時代に現れた羽釜は、今、我々が使っている電気炊飯器の中に入っている羽釜の祖先となったのである。

 

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