コメと信仰
弥生時代(あるいは縄文時代晩期)に日本に伝来したコメは、日本に様々な文化や技術をもたらした。さらに品種改良によってコメが性質を変える度、コメにまつわる文化も技術も変化していった。
人々にとって欠かせない大切な食糧となったコメは、信仰祭祀にも大きな影響を与えている。
コメの栽培が始まる前、縄文時代の人々は狩猟採取に依存した生活を送っていたと考えられている。狩猟の成功や植物の実りへの豊穣の祈りの形跡は遺跡から発掘される土偶に現れている。「縄文のビーナス」「遮光器土器」などの著名な考古遺物は当時の人々の精神活動の一部を現代に伝えている。
コメの栽培が始まると、稲の生育やコメの収穫を願う信仰が生じた。
この信仰は稲作が始まったとされる中国大陸から半島を経て日本へと伝えられた。日本へ稲作が伝えられた当時の中国大陸では、神仙思想や陰陽五行を取り入れた道教が盛んになっていた。
この道教思想が、稲作伝来の当時から日本のコメの信仰に大きく影響を与えたと考えることができる。
稲の生育に必要なものは太陽と水である。
太陽神や水をもたらす龍神の信仰は、大陸の道教の要素を持ちながら次第に日本の風土に馴染み、根付いたその土地で変容していった。
うるち米の信仰は、古墳時代の埴輪に見ることができる。
全国の古墳から発掘されている巫女の埴輪の中には片腕、もしくは両腕を前に伸ばした姿勢のものが珍しくない。巫女の埴輪の手には杯が持たされて、この杯はコメを盛ったものである、と見なされている。特に群馬県太田市の塚廻り3号墳から発掘された巫女の埴輪が良い例である。
このような埴輪はコメの豊作を祈り、感謝する祭祀儀礼がこの時代に行われていたことを示している。
もち米の信仰は、うるち米よりも祭祀儀礼に寄っている。
もち米は、遺伝学的な性質からうるち米よりも栽培に手間がかかる(もち米の形質は潜性遺伝のため、顕性のうるち米と交配すると子孫はすべてうるち米になってしまう)。
この希少性のため、もち米は神にささげる供物、すなわち神饌にされてきた経緯がある。正月の餅、祝いの餅、そして葬儀にも餅は供えられる。
真っ白な餅には、その形状からか白鳥と結びついた伝承が生まれている。
餅が白鳥になったり(豊後、京都、富山)、白鳥が餅(豊前)になったり、類型の伝承は冬にハクチョウが飛来する地域に広く伝わっているようだ。
白鳥は日本武尊の魂の依り代とされる日本書紀の話がよく知られているように、古くは人の魂を運ぶ生き物として認識されていたと考えられている。
餅と白鳥は日本の古い稲作の信仰と切り離せない関係にあるといえるだろう。
古墳時代を経て成立したヤマトの神話には、コメの信仰に由来するものが随所にみられる。ヤマト神話を主題に様々な伝承を編纂して記された日本書紀の神代には、稲作の祭祀の様子をうかがわせる記述がある。
また神代以降の日本書紀では、飛鳥時代に皇極天皇が雨乞いを行ったという記録がある。弥生時代からの稲作の信仰は王族の祭祀として倭王権へと引き継がれたことを示している。
今も全国各地の神社では(あるいは神社仏閣の関与が無くても)季節に応じた米の祭祀儀礼が、また新嘗祭を代表とする天皇による稲作神事が行われている。
弥生時代に始まったコメと人々の関わりは現代にまで生き続けているのである。
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