コメといっしょに来たもの
コメが大陸から渡ってきたとき、もちろんその栽培技術も共に日本にもたらされた。
なんといってもコメの栽培には水を大量に必要とする。コメの栽培地である水田を作るにはいくつもの技術が必要だった。
最初のうちこそ湿地帯をほぼそのまま水田にした湿田でコメが栽培された形跡があるものの、日本の米作りの主流は今に至るまで乾田である。
乾田とは、米の栽培期には水を張り稲刈りの後は水を抜いて土を休ませる水田のことをいう。管理効率や稲の収量は乾田の方が湿田よりも高く、一年を周期として計画的に栽培することが可能である。
この湿田に「水を入れ、水を抜く」という技術こそ稲作技術の要となるものである。
田に水を貯めるための畦や水路をつくるための土木技術は、土木工事を行うための鍬や鋤といった木製道具とともに主に朝鮮半島から伝えられた。実った稲穂を刈り取るための石包丁も同様である。
稲作技術のほとんどが朝鮮半島南部からもたらされたが、米を保存する高床式倉庫は朝鮮半島にはない技術だという。半島を介さずに直接大陸から入って来た稲作技術もあったのだろう。
一方で大陸や半島で普及していたのに弥生時代の日本に伝わらなかった技術がある。それが牛や馬による畜耕である。中国大陸と朝鮮半島の稲作は早くから牛馬の力を利用していたが、日本に牛馬が持ち込まれたのは古墳時代に入ってからだと考えられている。畜耕の遅れは後に日本の稲作にまつわる信仰に大きく関わってくることになる。
そしてコメといっしょに日本にやって来たものとして、土木技術より牛馬より、何よりも大きな影響を与えたのは人間である。
縄文時代晩期まで日本列島に住んでいたのは縄文人と呼ばれる人々である。縄文人の祖先は大陸の集団から数万年前に分化して日本列島に渡ってきた。地球の気候変動により日本列島は大陸から分断され、縄文人は長い間、大陸の集団から孤立し独自のグループを構成していたと考えられている。
縄文時代晩期から日本に稲作技術を伝えた人々はそれまで日本に住んでいた縄文人と混血し、やがて弥生人が出現した。
コメといっしょに来た新しい技術と文化を持った人間は、日本に新たな時代を作り出していくことになる。
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