第10話 未知との遭遇
溜息。浅田邦彦ははあ、と息を漏らす。米依川。市を流れる大きな川の河川敷。まだ午前中だが、浅田邦彦は父からようやくもらえた休憩時間、家にいるのも気まずくてそんなところへ来ていた。足元のビニール袋には、やけで買った菓子パンと飲み物が入っている。
「くそっ」
手元の石ころを適当に放り投げる。水切りなんかが目的ではなく、ただの憂さ晴らしだった。
「イタイッ」
川に落ちず、その手前の茂みに消えた石ころから声が聞こえた。否、普通に考えれば彼の投げた石が人に当たったに決まっている。逃げようとしたが、相手はすぐに茂みから現れて、うっかり邦彦と目があった。思わず足がすくんで動けない。相手は無闇矢鱈に彫りの深い外国人風の男だった。出稼ぎだろうか、この辺りではあまり聞かないが。
「あ、あの……」
しかして体格だけなら相手のほうが上。なんと言い訳しようか。
「誰カ、この辺りデ、石投げる人、見ませんでしたカ」
堀の深い男はそんな言葉を邦彦に投げた。どうやら石を投げた人間は別にいると思っているらしい。
「み、見た! でもそいつはもう、走って逃げたぞ」
口からでまかせ、指先もその辺の適当な位置を指す。
「そうですカ。ありがとうございまス」
男は手の中で石ころを転がしている。そんな形の石だったなあと邦彦はつばを飲み込んだ。
「お前ハ、ここで何してル?」
「え?」
急な質問に思わず詰まる。こいつ、本当は疑っているんじゃないか。
「いや、別に、ただ、ちょっと逃げてきただけだ」
言ってから後悔する。なんでこんな見ず知らずの相手に。すると相手は少し驚いた素振りを見せ、邦彦の足元に座り込んだ。
「わたしもでス。わたしの上司怒ってル。怖いから逃げてきタ」
急に愚痴られれば驚きもする。だが、それよりも妙な仲間意識が邦彦の胸をついた。
「おれは親父だ。あいつ、勝手にキレて人の話も聞かねえで怒鳴りやがって」
気づけば邦彦もその場で座り込んでしまっていた。
「わたしの上司もでス。いつも怒ってばかりでス。怖いのでス」
怖い。邦彦なら口が裂けても出ない言葉をこの男は平気で出す。相手が見ず知らずの高校生だからだろうか。
「わたしが、悪いからなのはわかってル。だから頑張ル。だけど、上司怒ル。それが怖イ。だから」
「帰りたくない」
邦彦は思わず男の言葉を継いでしまった。男が目を丸くして邦彦を見る。一瞬どうしようか迷ったが、言葉だけがどんどん先行する、止まらない。
「お前の気持ち、なんとなくわかる」
「本当カ、わかってくれるカ」
男の目の中に涙が浮かぶ。
「ああ。あいつらはいつも人のことを考えねえ。自分を中心にして、それ以外はなにも考えちゃいねえ。こっちがどんな思いをしているのか、とかそういうことを」
「そうなのでス。わたし怖い、もう働けなイ」
「だけど、だからって負けるのは嫌だろ?」
「負ける、嫌?」
邦彦は立ち上がる。
「どうせ働かないなら一言言ってやろうぜ。この糞野郎って。なんなら殴ってもいい。そうしたらいいんだ」
彼は気づけばきつく拳を結んでそう言っていた。男はぽかんとして少年を見上げていたが、やがてふと立ち上がった。
「それは、いけなイ」
「なんでだ。暴力反対、とか、そういうやつか」
少年は声を上げた。が、男が身を震わせ怯えた様子を見せると、顔を逸らすしかなかった。
「だけど、お前だってさんざんその、上司ってやつに言われてきたんだろう。だったら殴られるぐらい当然の報いだ。そうだろう?」
「違ウ」
男ははっきりと言い放った。邦彦のほうが面食らう。
「お前の手、震えてル」
男は少年の拳に自身の手を重ねた。
「もシ、お前がお父さんを殴ってモ、お前の心晴れなイ。わたしもそウ。わたしが上司殴ってモ、私の心晴れなイ。何も解決しなイ」
「じゃあどうすればいいんだ!」
邦彦は思わず絶叫した。男はすまなそうに俯いた。
「わたしにモ、わからない。だけど、暴力は、違ウ。そう思ウ」
「……」
邦彦は黙りこむしかなかった。
「でモ、今、わたし、心晴れタ。そう思ウ」
「え?」
突然の男の言葉に少年は顔を上げた。
「お前と喋ったかラ。そう思ウ。お前違うカ」
「いや、それは……」
邦彦にはよくわからなかった。
「わたし達の家教えル。何かあったらお前来イ。きっと心晴れル」
男はそう言って急に邦彦の手を引いて歩き始めた。おい、とか、ちょっとまてよ、そういった言葉は聞き入れてはもらえなかった。
「わたしの名前、カケルニット。お前の名前、なんていウ」
浅田邦彦にはまだこの時、とんでもないものと出会ってしまったという自覚はない。
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