第3話 ながれぼし
稲の様子をひと通り確認、そして南方圭介はあぜ道を辿って帰途についた。ちょうど日は真上、今は正午か、強い日差しだったが、別段困ったものだとは思わない。しかして日曜日の半分が終わったことになる。平日は高校生である彼も、休日は近所の田畑の手伝いを買って出ている。農作業にご近所の互助は欠かせない、加えて南方圭介の体格は大柄ゆえに、それを逃す農家もいなかった。もちろんそれを苦と思ったことはなく、だからこそ彼はこうして時間を使っているのだ。そんな彼の汗を水田の水の香り混ざる風が凪いだ。仮にも農作業に従事する身である、加えて季節は皐月の末、この程度でへこたれるわけがない、が。
「あにさんおつかれー」
あぜ道をキーコーキーコーと嫌な音をたてる自転車が近づいていることに圭介は気づいていた。
「ひすいか」
小野寺ひすい、彼の近所に住む少女だった。年は一つ下、きちんと少年のことを年上と認識し敬う農家の少女である。邪魔だから、とさっぱりとしたショートカットに潤んだ瞳の印象的な少女だった。
「おみやげ」
圭介の頬を冷たいものが触れた。
「またポカリか」
別に今はいらないのに。
「じいちゃんがいっぱい買ってるからね」
はい、と押し付けられて仕方なく受け取る。濁った液体の詰まったペットボトルだ。ラベルが無いため、これがポカリかどうか判別はつかない。おおよそ花輪のドラッグストアで売られているスポーツドリンクであってポカリではないのだろう。小野寺ひすいの祖父十蔵は粉末状で売られているそれをまとめて買い、いそいそと水で溶かしジャグに詰めてご近所さんに配るのが習慣なのだ。妙な趣味を持ったものである。
「ゴウちゃんは?」
ひすいは自転車を降り圭介の隣に並ぶ。
「杉江さんに呼ばれて遅れてくる」
杉江さんももちろんこの辺りの農家だ。収穫した野菜の運搬か、それとも縁側で世間話か。
「なるほど。ゴウちゃん大人気だもんね」
「力仕事だったらあいつにはかなわないしな」
「またまた、あにさんだって十分力持ちじゃない。手伝ってあげたら?」
「あいつはロボットだぞ。比じゃない」
「でもさ、やっぱり心配でしょ」
「なんでだ」
声は平静を保っているが、こっそりひすいが顔を覗き見ると眉間にしわが寄っているのが見えた。機嫌を損ねてしまったらしい。
「だっていつも二人一緒だったじゃない、だからね」
慌ててひすいは言葉を付け足す。
「別に、今はそういう訳じゃねえしな」
どこか噛み殺すように圭介はいった。ひすいはふーん、と鼻を鳴らす。圭介の歩みが心なしか早い。うーんと唸り、ひすいは慌てて頭を回した。
「そういえばさ、今日なんだよね」
ぱん、と手を打ち少女は目を輝かせた。いいこと思いついた、とでも言いたげである。
「なにが」
と口にしてから圭介はひとつのイベントを思い出した。
「留学生だよ。もう忘れちゃったの?」
不満気な声に、今さっき思い出したよ、と言う。
「いやね、お母さんに写真見せてもらったんだけどすごいんだよ、すごい美人だよ。あと目が緑なの。すごくない?」
語彙が足りないらしくいまいち伝わらない。圭介は適当にそうかそうかと相槌を打つ。
「それから、温泉とか連れてってあげようっていってるんだ。ゴウちゃんと、後、あにさんもくる?」
「おれはともかくあいつは来てもしょうがないだろ」
あいつが温泉に入ればお湯は一瞬にして外に流れ出てしまうだろう。もしかしたら錆びるかもしれない。
「そっか。でもさ、置いて行っちゃダメでしょ」
「別にいいだろう」
「寂しいでしょ、あにさんが」
「はあ?」
どすの利いた重たい声が圭介の口から落ちた。ひすいの体がビクリと震えた。しまった、また口が滑ったと反省する。
「いやさ、最近あにさん一人でいること多いから寂しいんじゃないかなって」
「なんでそうなるんだ、さっきから」
圭介は足を止めた。ひすいも自転車を慌てて止める。
「ほら、その」
彼女の目が泳ぐ。
「だってさ、最近ゴウちゃんばっかご近所さんにお呼ばれしたりしてるからさ、その」
「関係ないだろう。あいつが何をどこでしていようが」
声に緊張感が張っている。こうなったらしょうがない、また口を滑らすぐらいなら、全て言ってしまえ、とひすいは決心した。
「その通りなんだけど、一番そう思ってないのはあにさんなんじゃないかって」
「なにを根拠に」
「前から思ってたんだけど、ゴウちゃんだってゴウちゃんだからね」
「どういう意味だ」
圭介がにじり寄った。
「あにさんじゃないってこと。ゴウちゃんはゴウちゃんなんだよ。だからさ、あにさんが寂しくてもゴウちゃんはそれ、わかんないよ。だから寂しい時はちゃんと言わないと」
「なに訳の分かんない……」
圭介が声を張ろうとしたその時だった。
「あ、浅田くんたちだ」
人の気配に圭介が前へ振り直り、続けてひすいはつぶやいた。
「よお圭介。調子はどうだ」
南方圭介と比較すると随分と小さく見える少年、それが二人の元へ歩いてくる。身長は小野寺ひすいより慎重は少し高いくらい。その後ろには太鼓持ちと取り巻きがいる。合計三人。
「まあまあだ」
心なしかむっとして圭介は答える。否、威圧するように彼が背筋を伸ばしていることから、穏やかでないことは確かだ。
「おれは絶好調だ」「みたいだな」
「ところであいつはどこだ」「あいつ?」
「ほら、あのでかいやつだよ」「こいつのことか」
「違う。こいつじゃ牛の世話はできねえだろ」「じゃあ誰のことだはっきり言いやがれ」
「ゴウちゃんのことでしょ、ふたりとも落ち着いて」
暴言とともに顔の距離がどんどん近くなる二人の間にひすいが慌てて割ってはいった。太鼓持ちと取り巻きは何もしない。彼に下手に絡むと面倒であることを知っているからだ。
「そうだそいつだよ」
にやにやしながら少年は答えた。あだ名はオヤジ、しかして名前は浅田邦彦、彼は酪農家の息子である。
「あいつ牛の世話が好きらしいからな。呼びに来てやったんだが」
「別にあいつは牛飼いじゃねえ。自分でやりゃあいいじゃねえか」
「あれが好きでやってんだからいいだろ。それにあいつ、人の言うことはなんでも素直に聞くだろ」
「違う。あいつは!」
ひすいが圭介の腕を引いた。
「人を傷つけられない、だったなあ忘れてた。ロボット何原則だっけ。まあなんにしたって便利だよなあ」
「浅田くんも落ち着いて!」
体格差が二倍にも見えるひすいと圭介、彼女に圭介がやすやすと抑えられるわけではない。
「何が便利だ、牛の面倒見るのはお前の仕事だろ」
「おれは牛飼いじゃねえ。それはオヤジだ。あんな家は継ぐ気はねえしな」
「ああそうかもな。でもお前の家のおやじさんこええからな、世話だけはしとかないと後がこええもんな。今日はおやじさん留守だから大変だなあ。下手に世話してたら怒られるんだろ」
「なんだと!」
今度こそまずいとひすいが手を伸ばす、より早く浅田邦彦は南方圭介の襟首を掴みかけ、止まった。圭介は舌打ちしながら振り返る。ぼす、ぼす、ぼす、と足音を立てて六メートルほどの巨人が歩いてきていた。
「おみやげ、ってあれ、浅田くんだ」
巨体の割に木鈴の様な声があぜ道に鳴った。それが通称ゴウちゃんの声だった。
「よお。呼びに来たぜ」
ひすいが道を譲り圭介の横を邦彦は通る。ばん、と巨人の体を作るその金属の装甲板を叩く。サビの匂いが舞った。
「あ、ありがとう。どうしたの?」
ぎい、と音を立て巨体が傾きその顔を邦彦に近づける。まるで縄文土器のような意匠的文様のついた顔であるが、大きく空いた瞳の部分を覗けば炎のように輝く瞳があった。
「いつものだよ。ちょっとツラかせよ」
「うん、わかった」
一瞬その目が圭介に流れるが、すぐに体勢を戻し、歩き出した浅田邦彦の後を追う。圭介は巨人のことを見ようともしない。
「あの、これ、おみやげ、杉江さんから」
すれ違いざま巨人は左人差し指に引っ掛けたビニール袋を圭介に差し出す。それをひすいが代わりに受け取った。
「あ、枝豆だね。ありがとう! 今日の晩御飯にしてもいいかもね。そうだ、ゴウちゃん覚えてる? 今日ね……」
「覚えてるよ。留学生さんだね。僕も楽しみだからなるべく早く……」
「行くぞ。なにちんたらやってんだ」
ごん、と巨人の体を叩き、浅田邦彦が声をかけた。ごめん、と一言、黙りこんで巨人は後を追う。圭介は目の前をがに股で歩く少年の背中を睨みつけたまま動かなかった。
「帰ろう、留学生の子待ってるよ、わたし紹介してあげる! だからうち来なよ」
「考えとく」
圭介はピシャリと言い放った。あ、うん、と消え入りそうな声でひすいは答える。と、見つめる圭介の横顔の向う、空の彼方に少女は見た。
「あ、えーっと、流れ星?」
随分とぱっとしない声でひすいは空を指さした。
「流れ星?」
今は昼間も真昼、流れ星が見えるわけがない。しかし思わず圭介も空の向こうを見た。
「なにもないぞ」
「消えちゃったからね」
しかし彼女の視線は空に縫い止められたままだ。
「どうかしたのか?」
「いや、よくわかんないけど、なんだと思う?」
「おれは見てねえよ」
「そっか」
ようやく意識でも戻ったように随分と間を置いて少女は自転車を押し歩き始める。圭介も慌てて歩き出した。
「でもさ、あんまりお願いごととか叶えてくれそうな感じはしなかったな。嫌な気がした」
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