子泣き爺
俺が料亭の料理人をやっていた時に、とその男は言った。温泉に入って隣に座っていた男はやや堅気っぽくないのだが、その筋の者でもない。少し擦れた感じの四十半ばだった。旅の疲れを温泉にでも入っていやそうと止まった宿でたらふくおいしいもんを食べた後だった。ざぶんと湯に入り、今日の夕べはうまかったと独り言ちているとあの料理はどこそこの港町から仕入れているのさ、新鮮なうちに取り寄せるからうまいんだ。そんなことを言ってきた。そして、料理の蘊蓄が一通り済むと妙なうわさ話をしてきた。こんな話だ。
どこかで赤ん坊の泣き声がした。気のせいか辺りを見回してみる。鬱蒼としたまだ雨の残り香の残る草の匂いがするまさに手の入っていない叢だ。頭はまだ毛が生えそろっていないのだろうか、額近くに産毛程度に房がある。大きなまあるい形をしており、つやつやと肌が肌色をしている。何やら、項辺りで赤い紐が結ばれていた。どうやら産着でも着けているのだろうか。ぶるぶると震える。どうもかわいそうだ、大丈夫だろうかと近づいてみる。だぎゃだぎゃあと泣いている。おーよしよし、もぅこわくねぇぞ。と繊細に取り扱ってその赤子を泣き止ませようと近づいていった。暗闇の為かあまり顔が見えなかった。よーしよしもうでぇじょーぶだと赤子を抱上げあやす。こぅ背中におぶせ、腰を使ってゆさゆさ、ゆさゆさ懸命に赤子をあやし続けた。周りはとうに暗く、まったく周りが見えなかったが、とにかく赤子を泣き止むのが先決であった。だぎゃーだぎゃー。しかし、泣き止む様子が無かった。おーよしよし。この可哀想な赤子を泣き止ますために必死になってゆさゆさあやす。ゆさゆさ。なんだが少し重くなった気がした。気のせいだろうか。ゆさゆさ。んっ。まるで石をおぶっているような違和感を感じる。ゆさゆさ。んがぁ。思わず鼻から息を吐き出してしまった。なんという重さだろうか。ゆさゆさするたびに何やらズシッと腰に響く。これはとても耐えられるような重さではない。思わず、背におぶった赤子を離してしまった。が、離れない。背中から腰に掛けての漬物石のようなものを五個ほどくっついてしまったように重さが腰に響いてくる。これはいったいどうしたことだろうか。だらだら脂汗を流しながら、もはや赤子をあやすどころではなくなっていた。何とかその重みから逃れようともがいている。
しかし、その赤子だったものは腰にへばり付いて離れなかった。ぎぃやぁー。とうとう悲鳴を上げてしまった。だれかぁったぁすけぇてくれー。とうとう人に助けを求めてしまった。しかし、誰もいない。このままでは重みでつぶされてしまう。滝のように流れる汗で目が見えなくなっていたが、自分の背中にくっついているものを必死で見ようとした。だぎゃあ。背中からぬっと顔を出した赤子は赤子ではなかった。前歯が二本しかない老人の顔であった。白目をむき、だぎゃぁだぎゃぁと赤子の様に泣いているのは老人であったのだ。ひぃ。目と目が合ったとたん、その老人はにゃっと笑った。笑ったように見えた。顔からザーッと血の気が引いた。全身から力が抜け、途端に重さのあまり体を押しつぶされてしまった。ぎゅぃーっと何か搾り取られるような変な声を口から出して絶命した。あたりの背の高い草が風になびく。何事もなかったように草は暗闇の中、さわさわと揺らめいていた。
変だねぇ。と料亭の女将さんは言う。そろそろ仕入れに来る頃なのに、あの、人のいい人が時間に遅れるわけがないのにねぇ。いつも仕入れをしている男は性格が良いので評判であった。その男の仕入れる魚はいつも新鮮で、料理人としても一目置いていたのだ。しようがないから、今朝は肉にしようかねぇなんてぶつぶつ独り言を言って賄い処へと消えた。先ほどの男の話を聞いていたのでぎょっとなったが、その男はすでに住民によって葬られているはずなので、その男のはずがない。ほっとして昨日の話を確認するため賄い処へ行ってみた。しかし、目当ての男は幾ら探しても見当たらない。ちょっと、女将さん。ここにこうこうこういう男はいなかったかね。と昨日話していた男の様子を話し、居場所を聞いてみた。しかし、女将さんは不思議そうな顔をし、そんな男はここにはおりませんよ。と言った。はておかしいな。間違うはずがなくこうゆう男がここで働いているはずなのだがとさらに詳しく聞く。しばらく考えたが、やはり思い当たらない。そういえば、いつも仕入れに来てくれる人に人相は似ているようだねとぽつりと言った。うんとなったが、そろそろ出立の刻限が迫っていたので、詳しくは聞けずじまいであった。村を抜け叢が生い茂る場所へ差し掛かった。何やら人だかりができていた。どうしたんでぇと聞いてみると人が押しつぶされて死んでいるんでさぁと答えが返ってきた。こりゃ料亭にいつも出入する漁商の男だと聞こえたような気がしたが、先を急いであまり気に留めなかった。そろそろ関所に差し掛かるところで身を引き締めて前を向いて歩いていった。
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