幽霊

 うらぶれた古屋が並ぶ通りには柳の木が植えられていた。町を流れる小川に沿って水面に葉がつくかつかないかというほどに生い茂っている。薄生暖かい風がねっとりと吹くとさわさわと暖簾のような枝が揺れるのだ。まるで、女の髪の様に。薄暗くなりかけた通りにはぽつりぽつりと酒を振舞うお店の明かりがともっていく。その一件に入って今日の晩飯にすることにする。晩飯が済み、晩酌として熱燗でお猪口を傾けている。その後ろの方で若い町人らが話をしている。どうやら、深刻な話らしい。えぇ、つけが払ってもらえなくなって困っておりやす。と何かしら賄処へ配達を行っているらしい若いやせ気味の青色の着物にたすき掛けした男は話す。その賄処の主人ってぇとと一方の情報通らしいぽっちゃりとした黄色い着物を着た男は思い出したように話す。詳しい話は聞きづらかったがどうやら女の話らしい。


片方の目の瞼の辺りから大きな真っ青な瘤があり、目が見えなくなるほど垂れ下がっている。原因は恨みか、もしくは心残りそのどちらかであろう。もはや理由を聞くことは無理なのは承知だ。


女の方は巷でも評判の器量よし。また、夫婦となる男もまたこれに輪をかけて、評判のお似合いのおしどりであった。夫から鈴付きのお守りをもらい受けた。その夫婦が事件へと巻き込まれていく。人の理不尽さによって命を落とす。

最初は明るい感じの雰囲気ではあった。只貧乏であったのだ。


上司、それらは時に悪人よりも悪事を働くことがある。冤罪。自分の犯した罪を下士になすりつけ、その間に手柄を立てそれを理由に出世したりする。刻に人事の季節であった。ここで、上司に取り入られなければもう二度と出世することはないだろう。最近物入りだと妻は言う。なかなか家計がうまくいかないのだ。焦っていたのだ。その時、あまり好きではない上司に飲みに誘われた。気は進まなかったがあまり邪険にもできない。自分が定刻には帰るのは皆が知っているはずなのに今回はやたらと強引だった。うまい魚でやたらとすすんだ。頃合いになると上司が金子を渡す。これで支払っておけ、つりはいらんと。結構な酔いだったのであまりよく考えずに支払いを済ませ、それではごちそうになりましたと丁寧に上司にお礼をし、つりはそのまま懐に入れた。朝目が覚めてみると懐がなかなかに重たかった。不審に思い開けてみるとなんとすごい金額が財布に入っていた。これはどうしたものだろう。上司に返すべきか迷った。しかし、魔が差した。大体上司はつりはいらぬといった。これは自分が使っていいものなのだと自分に言い聞かせ、妻に臨時収入があったことを伝え、生活費をいつもより多く渡した。しばらくすると藩の蔵から何やら金額が合わないという事件が起こった。皆必死になり金額を合わせようとしたが合わない。これはどうしたことかと蜂をつついたような騒ぎとなった。そうこうしていると上司にお前最近はぶりが良いの、どうしたのだと水を向けられた。いやそれはとどう答えようか迷っていると怪しいと上司が叱責しだした。まるでこちらが藩の金を盗んだと言わんばかりに日頃目に付いたことを適当に関連付け、詰問しだす。こちらはまるで身に覚えがなく答えに窮しているとあれよあれよという間に罪人扱いとなっていった。


夫は何時まで待っても帰ってこない。妻は上司の屋敷に相談に行く。上司は最初妻に対してやさしく話を聞く。しかし、要領を得ない返事しかない。なんとも納得がいかない気持ちで家に帰る。しかし、また相談に行く。今度もちゃんと対応するがやはり要領を得ない。こういう事が何度も何度も続けられた。上司は何やら酒を飲んでいた。酌をさせられる。あっと思ったときは後の祭りであった。寝言で夫が冤罪で捕まった事を間抜け呼ばわりする。妻は上司を断罪する。ちっ。起き抜けに上司は間においてある刀を取り、恐れて逃げようとする妻を切って捨てた。そのままドボンと井戸に捨てる。

お守りから落ちた鈴が、探してみても見つからなかった。お守りなどの証拠の品はすべて焼いてしまった。

そして、身を守るためには組織の存在を悪用する。すべては組織を守り、組織の利益の為なのだと。

証拠不十分で釈放されたが、帰ってみると妻がいない。どうやら三下り半を突き付けられたようだ。何もやる気が起きなかった。そして上司は出世の為、女に手を出したその罪を男の親友になすりつける。親友は騙されたことに気づき、藩を脱藩、逃走を続ける。男は名誉のため、それを追い続ける。


後は、上にそれらの悪事を捏造し伝え、事件を解決したのが自分であるかのように含む。しばらく、勝利の美酒に酔う。


人の未練は、善悪、貴賤を問わず、人を惑わせてしまう。

幾日かすると、静かに眠る寝室に何やら奇妙な出来事が起こるようになる。


寝室に何やら、チリンチリンと鈴の音が近づいてくるような気がする。誰だ。誰何してみるが、返事はない。しばらく耳を傾けていたが、静かになったのでまた床に横になる。そうすると眠れるか眠れないかのうちにまた、チリンチリンと鈴の音が近づく。その繰り返しで、とうとう鈴の音が襖のすぐ傍まで来てしまった。すーっばたん、と襖を勢いよく開けてみるがやはりそこにはだれもいなかった。そういうことが毎晩のように起こった。最初は健康そうにぷっくりと太った頬もだんだんこけだし、目の下には黒々とした隈ができてきた。日が経つに連れ身の回りの事もおっくうとなり、髭は伸び放題、鬢もろくに手入れがなされず、人に見せられるような様相ではなくなってきた。

火の玉、青白く空間を漂うどろりどろり、恨めしや、白装束に髪を長々と前へ垂らし、顔色は滅法悪い前髪を一房口に咥える。手は力なく指先がだらりと垂れているが、何とか手を挙げようとしているのか、手首までは胸元まで持ってきている。そして、そこで力尽きたかのように手全体に力がない。一番変なのは足が無い事だ。膝小僧から下が、何やらうっすらと透けていて足が見えない。向こうの風景が見えるのだ。恨みがましい目で何か氷を思わせる視線を全くそらさずにいる。

ヒュードロドロドロ、柳の木が風もないのに揺らめいている。その柳の影から髪の長い女の影がゆらゆらと蠢いていた。


ふっと目が覚め顔をあげると頬の下に赤い水たまりができていた。血だ。ひゃあぁぁぁ。がばっと布団を投げ飛ばす。勢い余って後ろまでよろけ、後頭部を畳へと打ちつける。ゴン。しかし、痛みは感じなかった。そろそろと先刻の場所を確認しに行く。よく畳を擦って確認するが、特に濡れている感じはしなかった。只の乾燥した畳だ。長年使っていたため、灯の下で見れば色落ちし黄色がかって、ところどころにささくれ立った、いつも通りの畳であった。ひぃひぃひぃっ。驚きのあまり息が乱れてしまったのを何とか整えようと吸ったり吐いたりを繰り返す。しかしあまり効果はなかった。冷や汗が額から揉み上げ近くを流れ、畳にポタリと音を立てて滴り落ちる。


結局一睡もできなかった。眼の下は黒く隈が出来ており、目は充血し、何かせわしなく動いていた。何かございましたか。と心配になり聞いてみると、恐ろしそうな顔でこちらを見る。一瞬目をそらしたがったような表情をしていたが、その家人が誰だかわかるといつもの尊大な表情に戻った。


廊下をスッスッと歩いていくと、まるで風もないのに庭の草木が揺らめいたりする。気に留めないようにする。なんだか、襖の向こうに誰かいるようだ。自分の動きに合わせて襖の向こうの誰かも動いているように感じる。我慢が出来ず襖を開け放つ。誰だ。誰もいない。只部屋の奥は影となり明るいこちらからは見づらくなっていた。確認するべきか迷う。しかし、確認せずにはおれない。部屋へ入る。すっと目の前に唐突に女が現れる。びっくりして後ろに思わず飛び退く。改めてその女を凝視する。なぜかびしょ濡れだ。顔は伏せ気味で長い黒髪が片目を隠すほど垂れ下がっている。白い着物だがどうも足元が見えずらい。己曲者がっ。また近づいて顔をよく見ようとしたその時、ガタガタガタと廊下を走る音が聞こえる。思わずそこに目を向ける。旦那様っいかがなさいましたかっ。と使用人が血相を変えて尋ねてくる。曲者じゃっ、こやつを何とかしろっ。言って右手の人差し指をさっきの女の方へと差し向ける。どちらでございましょうか。と使用人がしどろもどろとまた尋ねてくる。イライラしながら、こいつじゃ今ここにいるであろうっ、と振り返ってみるとだぁれもいない。あれっ確かに女がいたはずなのに、いくら目を凝らしても部屋には何もなかった。どちらでございましょうか、と使用人も不安になりながらまた確認する。なんでもないとごまかすようにその場を去る。後には何か釈然としない使用人だけが取り残された。


家中の人間はそのように家長の変調にだいぶ不安がっていた。夜になるとなぜか家長が騒いだり、不安がったりする。その理由を一人の使用人が突き止めようとする。夜寝ずの番をする。家長には気づかれないように慎重に。すると何やら生暖かい風が吹く。あまりいい気はしなかった。突然、家長の寝屋からガタンバタンゴトンと騒がしい音がする。うぬは死んだはずじゃ。声を荒げ部屋の中で暴れまわっているようだ。すぐにでも助けに参上するべきか迷ったが、しばらく様子をうかがう。そして、襖を切りつけ家長が表に顔を出してきた。まるっきり一人だった。何もない空に刀を振り回し、視線も定まらず、血相を変えとても正気なようには見えなかった。騒ぎを聞きつけ他の家人が現れる。その家人を家長は一刀のもとに切り伏せた。はっ。なんてことを。そして家長は、恐れ入ったか、貴様などのゴミムシはわしの出世の糧となればよいのじゃ。とそのもはや動かなくなった家人を井戸まで引きずりドボンとやった。様子をうかがっていた使用人は震えが止まらなくなった。なんてことだ。乱心なされておられる。そして、ぼーっとしている家長の周りに何やら青白い火の塊がふわりふわり飛び回っているようにも見えた。しばらく、涎を垂らしながら、荒く息を吐いたり吸ったり、目をぎょろつかせ井戸を凝視する。ふぃと何やら頭部の後ろを撫でられるとぞゎっと寒気がした。その怖気のような身震いが耐えられず、吠えるように剣を目倉滅法振り回す。あっと思ったときは遅かった。井戸へ頭から真っ逆さまに落ちていく。あぁぁー。家人が急ぎ近づき井戸を確認したが後の祭りとなった。


親友の嫌疑は晴れ、男と共に復職す。しかしどこか晴れ晴れとしない結末であった。


酔いがすっかり回ってきたころには辺りもすっかり暗くなり、いざ宿屋へ参ろうかなんて千鳥足で店を出た。柳の木が並ぶ小川沿いをえっちらおっちら歩いていると、何やら生暖かい風がふっと頬を撫でた。柳の葉が揺れたと思うと人影を見る。そっとそちらに注意を向けると顔を俯かせ何者かわからない。もう少しと顔寄せてみようとすると目の前にふっと何かが横切る。ひゃあと思わず後ろにしりもちをつく。人影は消え、何事もなかったの様に柳も静かに静止していた。少し酔いがさめてしまい、急ぎ足でその場を立ち去った。後には風もないのに柳の葉が揺れていた。

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