第4話 大きな一歩
翌日、シーラはどきどきしながら、『離婚不受理申出書』を役所に提出した。
別に悪いことをしているわけではない。
何なら悪いことをしているのは夫のほうだ。
だが、この二十年、夫に内緒で何かをするということがなかったシーラは、少しだけ後ろめたさを感じていた。
「シーラさん、無事、不受理申出書は提出できたかい?」
「……ええ、意外と呆気なかったわ」
役所に行った後、シーラはいつもどおり探偵事務所に出勤した。
レオポールの顔を見たら、ふっと力が抜けた。それまで感じていなかった空腹を覚える。
彼は何かを感じとったのか、ちらりと壁掛け時計を見上げると、親指をぐっと立てた。
「……少し早いが昼食にしないか?」
「いいわね。緊張が解けたのかしら……お腹が空いてきたところなの」
探偵事務所は三階建てのビルで、ビルそのものもレオポールが父親から受け継いだものらしい。
一階はロビーと受付。
二階は来客スペースと事務所。
三階にはオーナーであるレオポールの部屋と、食堂と、仮眠室がある。
探偵はレオポールの他にも三人いるが、日中はほぼ全員出払っている。彼らの仕事の大半は張り込みだからだ。
レオポールとシーラは食堂に入る。食堂と言っても料理人を雇っているわけではないので、各自で食べ物を用意して勝手に食べるスタイルだ。
「まだ差し入れのリンゴが残ってるな」
ステンレスの調理台の上には、籠に入った青リンゴが置かれていた。探偵は客商売なので、何かと差し入れを貰う。だが、レオポールを含め独身者ばかりの探偵達は差し入れを自分の部屋には持ち帰らない。
食べきれないからと、食堂に置いていくのだ。
レオポールが食べ物を物色している間、シーラは
薬缶がシュンシュンと音を立てて沸騰する頃には、テーブルの上にはサンドイッチ、それにシーラの前には櫛形切りにした青リンゴがのせられた皿が置かれていた。
今日のパンが得られることを天に感謝したあと、シーラはレオポールお手製のサンドイッチにかぶりついた。
「……美味しいわ」
薄切りにしたバゲットの間には、贅沢に厚切りにしたハムとチーズがあった。バゲットは出勤前にレオポールが買ったものだろうが、ハムとチーズは客から貰った贈答用だろう。
(……何かを食べて美味しいと思ったのは、いつぐらいぶりかしら?)
ここしばらく、何を食べても味がしなかったような気がする。
またシーラはサンドイッチを齧る。
香ばしいバゲットと、塩っ気のあるハムとチーズの組み合わせは抜群に合う。
「そりゃ良かった」
早々にサンドイッチを食べ終えたレオポールは、青リンゴを丸のまま齧り始めた。ぱりっと小気味良い音がする。
「我ながら単純なものよねえ。まだ『離婚不受理申出書』を役所に出しただけなのに。なんか、安心しちゃってるのよ」
「いやいや、大きな一歩だよ。伴侶にバレたらって考えて、躊躇する人はいるからな」
「……そう、後には引けなくなってくるわよね」
そう言いながら、シーラはもう後に引く気はなかった。
昨夜一晩考えたが、夫から貰うものはしっかり貰ってから離婚するつもりだ。
自分と息子がいるのに、笑顔で裏切った夫を許せそうにない。
昨日までは穏やかな幸せが終わってしまった悲しみにくれていたが、今は違う。
今のシーラは静かな怒りに燃えていた。
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