第3話 クラゲは反射的に行動している
「クラゲって知ってる?」
背後から聞こえた、聞き覚えのある声。
その声に、考えるより先に、反射的に振り返ってしまった。
振り返った先に立っていた茶髪の女子高性は、その短い髪をいじりながら、昨日同様の質問を、再び放った。
何故彼女はここにいるのかという疑問を持ちながらも、昨日の問答を思い出しながら、的確な答えを彼女へと返す。
「漢字では海に月って書かれるようなロマンティックな生物の事だろ?」
「……クラゲってさ、全身に神経が張り巡らされていて、その神経を使って、反射的に行動してるんだよ。さっき、ホウカ君は反射的に振り向いたでしょ? ずっと、その時の状態で動いてるみたいな感じかなー。……だから、あたしはクラゲになりたい」
「昨日も言ってたよね、クラゲになりたいって。どういう意味なの?」
「……あたしさ、もし死んだら、クラゲになって蘇りたいんだー」
「……それは、反射的に動く生物だから? それとも、ロマンティックな生物だから?」
「さあね。まあ、半分正解で、半分不正解かな。……ホウカ君って、放課後はいつもここに来てるの?」
彼女は周囲を見渡すと、分かりやすく話題を変えてきた。
少し思う所もあるが、仕方が無く新たな話題に乗るべく、周囲を見渡しつつ、返す言葉を考える。
僕達が会話を交わしている教室内では話し声どころか、物音もほとんど聞こえず、微かに聞こえる音と言えば外から聞こえるアブラゼミの鳴き声のみ。
室内は体を癒す冷気で包まれており、大量に並べられた本棚によるものかは分からないが、不快にも、懐かしいようにも感じる古本の独特な匂いが室内を満たしている。
周囲に座る数人の生徒は本棚から書物を手に取ると、熱心に何かを調べ、数人の生徒は楽しそうに物語を読みふける。
ここは僕らの通う高等学校の図書室。生徒が勉強や調べ物をするために訪れる、静寂の教室である。
僕は基本的に学校が終わると同時に、帰路につき、寄り道することなく自宅に帰宅するため、図書室に訪れ、帰宅時刻を遅らせるなんてことは普段はあり得ない。
それなのにも拘らず、帰宅することなく、今日図書室を訪れた理由は、調べ物をするためでも、物語を読むためでもない。ただ、眼前にいる女子高生から逃れるためだった。
昨日、帰宅中に僕の眼前に現れ、こちらの質問に答える事無く、自らの意思のみを伝えて姿を消した彼女は、最後にまたねと告げていた。
その発言から、今日も僕を追い、無駄に関わってくる可能性があると考え、それならば帰宅時間を遅らせようと、時間を潰すという名目で、図書室を訪れたのだ。
結果、何故か彼女は図書室にいる僕を見つけ、僕の作戦は無駄に終わった訳だが。
しかし、本人を目の前にし、本当の理由を話すわけにはいかない。
僕は数秒間黙り、適度に脳を働かせると、都合の良い理由を思いつき、彼女へとその理由を答えた。
「……別に、いつも来るわけじゃないよ。ただ、気になる事があってさ」
「気になる事って?」
「……クラゲの生態」
その言葉を耳にすると同時。彼女は出会ってから今日までの間で、一度も見せた事のない程に瞳を輝かせながら、言葉を繰り返した。
初めて見る好奇心にあふれ、嬉しそうな表情に動揺しながらも、行動に至った理由を適当に考え、静かに説明する。
「クラゲになりたいって言葉から、クラゲへの興味が少し湧いて。まあ、もう調べたし帰るとこ……」
「良いねー。クラゲに興味を持ってくれて、あたしも嬉しいよ!」
「いや、まあ、そこまで興味を持ったわけじゃ……」
「よし、それじゃあ、あたしがクラゲの良さを教えてあげよう」
僕の言葉を無視すると、彼女は生物に関する書物が並んだエリアへと移動し、鼻歌交じりに本棚を物色を始めた。
面倒くさく感じ、その場から離れよう考えるも、逃走を選択した場合、近い将来より一層面倒くさい事になるだろうと理性的に理解すると、小さくため息を零しながら、彼女に付き合うという選択肢を選んだ。
とはいえ、熱心に本棚を漁る彼女の横で仁王立ちしているのも、変に感じ、図書室の雰囲気に溶け込むべく、適当に本棚内の書籍を観察し始める。
クラゲの生態。クラゲ図鑑。海に住む生物クラゲ編。
クラゲ自体に人気があるのか、高校の図書室自体が驚異的なのかは不明だが、クラゲに関する本だけで数十種類あり、海に関する本も含めると数えきれなくなる。
一週間に一度の朝会にて、本校の図書数の多さを何度か耳にした事はあるが、想定以上の品揃えさ。これ程までに種類と量が多いのならば、無駄な時間を潰す際、再度図書室を利用するのもありかもしれない。
そんな、在りもしない可能性を脳内で巡らせながら、本棚を眺めていると、隣の彼女が一冊の本を手に取った。同時に僕の手を取ると、付近のテーブル席へと向かい、本を広げながら腰を下ろした。
彼女に促され、腰を下ろすと、開かれた本へと目をやる。そこには一枚のクラゲの写真が貼りつけられており、その上下左右にクラゲに関する説明が明記されていた。
「これ、見た事ある?」
彼女が指さしたのは、開かれたページに張り付けられている写真内に写り込んでいる、一匹のクラゲ。
白の様な、透明の様な色合いで、表面上には四葉のクローバーの様な模様を有しており、生物に詳しくない僕でも認知している程に有名なクラゲ。
恐らくは、日本人が一般的なクラゲと言われて、すぐさま想像するであろう容姿のクラゲだろう。
「……名前は知らないけど、有名なクラゲでしょ」
「うん。これはミズクラゲって言って、日本の近くで一番見られるクラゲなんだー。日本人がクラゲって聞いたら、これを想像すると思う。白っぽくて、透明で……凄く綺麗だよね」
「……うん。確かに綺麗だ」
以前、有名な水族館で目にした時の印象が強いからか、脳内で考えを巡らせるより先に、自然と綺麗という言葉が零れだしていた。
円柱の水槽の中、ゆったりと上下左右に動き回る透明の水中生物。美しく、まるで妖精のようで、見とれてしまうほどに綺麗なクラゲ。
実際に目にしたときは、余りの美しさに見とれてしまったのを今でも覚えている。
確かに、実際に目にした時の事を思い出すと、少しならばクラゲになりたいという気持ちも分からなくはない。
「……クラゲってさー。凄く綺麗で……クラゲを見てるときだけは、全部忘れて、ただ見とれていられるんだよねー」
「……だから、クラゲになりたいの?」
「ホウカ君は答えを急ぎ過ぎだよ。正解だけど、不正解。……そうだ、あたしが一つ教えたんだから、ホウカ君も何か教えてよ。ホウカ君について」
「教えたって……クラゲについて聞いただけじゃん」
正論を放つも、彼女はその言葉に耳を貸さず、仕切りに他愛のない問い掛けを始めた。
突然の質問の連続に困惑しながらも、冷静に頭を働かせ、彼女の行動の真意を考える。
恐らく、昨日今日と僕に深く関わろうとしてくる理由は、屋上での出来事を教師や友人など、他者へと話し、彼女が抱えている問題が周囲にバレてしまう可能性を考え、僕を上手く口封じする為なのであろう。
彼女が僕の事を知るべく、質問を繰り返しているのは仲良くなり、屋上での秘密を口外出来ない関係になろうとしているか、或いは僕の欠点を手のうちに入れ、互いに秘密の口外を出来ないようにするためだろう。
状況を鑑みると、脳内で彼女へと掛けるべき言葉を考えたのちに、浅慮に言葉を口から放つ。
「……鏑木さんは僕が屋上での出来事を誰かに言わないか心配してるんだよね。昨日も言ったけど、僕は君に対して興味がないし、誰かに言う事もしないから安心して良いよ」
「む……違うよ。あたしはそんな事考えてなくて、ただシンプルにホウカ君と仲良くなりたいの。だから、こうやって質問してるんだよ?」
「取り繕わなくていいのに」
「それじゃあさ、ホウカ君は何か好きな食べ物ある?」
多少不機嫌にも見える表情を浮かべながらも、これまでと変わらない声色で放たれたのは、初対面の話題で挙がる事の多い、単純な好物を尋ねる質問。
彼女の表情から裏の意味を探ろうと考えるが、返答を待つ彼女の間抜けともいえる表情から考えるに、この質問には大した意味はなく、僕を知るための単純な質問であるのに間違いなさそうだ。
返答か無視か悩みながらも、彼女から僕の顔へと送られてくる視線に耐えることが出来ず、小さくため息を零した後に、質問への返答を行う。
彼女への返答として、僕の口から放たれたのは甘い物全般という言葉。
女子高生でもない、ただの一般高校生にしては意外かもしれないが、僕は大の甘党であり、甘い物に目がない。それは一週間の終わりに喫茶店を訪れる程で、数日前も男女比率が一対九のお洒落な喫茶店を訪れては、生クリームをふんだんに使用したショートケーキを一人で頬張っていた。
見た目に似つかわしくない好物だからか、彼女は多少驚愕するような対応を見せると、制服のポケットに右手を入れ、軽くポケット内を弄った後に、お洒落なスマホリングが装着されている携帯機器を取り出した。
返答に対して何を言う事もなく、数秒間親指を動かし、携帯機器の画面のスクロールを続けたかと思うと、目当ての物を発見できたのか、彼女は画面から僕へと視線を動かすと同時に、自らの携帯機器の画面を僕へと見せてきた。
画面内では写真保存アプリが起動しており、苺が贅沢に使用されている美味しそうなショートケーキが画面いっぱいに表示されていた。
写真越しに目にしても、確実に美味しいと断言できる程に出来が良いショートケーキに見とれていると、写真を見せつけている彼女は自慢げに言葉を口にした。
「良いでしょ。この間友達と食べたショートケーキなんだけど、凄く美味しかったんだー」
「……自慢?」
「違うよー。あたしも、甘い物好きだって言いたかったの。あたしは特にケーキが好きかな。ホウカ君は特に好きなものとかある?」
「……プリンとか」
「プリンいいね、あたしも好きだよ。あ、プリンだったら、このカフェのが美味しくてね」
彼女は携帯機器を手元に戻すと、上機嫌に画面のスクロールを開始し、目当ての写真を探し始めた。
こうして観察していると、クラスメイトに対して、至って普通の反応を示し、普通の会話を行おうとしているようにも見えるが、裏があるのは明白。
一昨日まで面識すらなかったクラスメイトが、屋上での一件以降、積極的に近づき、距離を縮めようと図って来る。状況から考えて、数分前に思考した通り、屋上での一件の口止めの為に行動しているというのは確定だろう。
しかし、回りくどく距離を詰めてくる理由が分からない。
本人が他言しないと明言しているのだがら、それを信じればいいのではないかと思うが、その言葉を信用できる程の関係値が僕と彼女との間にはないから信用できないのだろうか。
もしそうならば、他人に対して深く関わりたくない僕にとって、多少面倒くさい事になるかもしれない。
「……ねえ、ちゃんと聞いてる?」
突然の問いかけに、ハッと我に返ると、下へと傾きかけていた頭を上げ、彼女の方へと視線を向ける。
視線の先にいる彼女は、僕が話を聞いていないのを理解したから、数十秒前の上機嫌な様子とは裏腹に、どこか不満げな表情を浮かべている。
考えるのに夢中になり、彼女の言葉を一切聞いていなかったことに、反省に近い感情を抱きながらも、こちらの言い分を聞くことなく、会話を強制した彼女が悪いと考えなおし、多少気まずい空間から逃げ出すように、図書室内に備え付けられた掛け時計へと視線を移す。
室内に取り付けられた、学生生活を送るのならば、一日一度は目にするであろうアナログ時計の二つの針はそれぞれ異なる方向を刺しており、短針は真下を、長針は頂点から数センチ右にずれた位置を刺していた。
その時計が示す時間がから考えるに、外は夕焼けに染まり始め、少しずつ夜が近づき始める時間帯だろう。
帰宅時間には丁度良いと考えると、帰宅する事を軽口で彼女へ伝えたのちに、床に置かれた通学用の鞄を手に取ると、席を立ち、図書室と廊下を繋ぐ扉へと足を動かし始める。
「あ、待って。あたしも帰るよ」
彼女は言葉を発しながら席を立つと、携帯機器をポケットへと入れ、数分前まで読んでいた本を保管されていた場所へと戻した後に、僕の元へと駆け寄って来た。
当然の様に隣を歩き始める彼女を面倒に感じながらも、気にしてはならないと自らに言い聞かせ、図書室に入室する際に使用した扉を開き、教室から廊下へと一歩踏み出す。
次の瞬間。不快感を感じる暑い空気が体全体を覆い、図書室内の冷気によって癒された体を、勢い良く熱し始めた。
冷房機器の効いた室内に長時間滞在していたからか、忘れかけていた。季節は夏であり、世間一般では真夏直前と呼ばれる時期。一歩でも冷房機器の効果外へと足を踏み出せば、体を蝕むように熱が体を包むのは当然だ。
帰路につくべく、一歩ずつ足を動かし、廊下を進みゆくが、足取りは重く、通常時の二分の一ほどの速度しか出せぬまま、普段の倍の時間を掛けて、昇降口へとたどり着いた。
昨日同様、無駄のない動作を繰り返し、内履きと外履きとを履き替えると、後を付ける彼女に一瞥することなく、彼女を置いて帰宅する覚悟を決めると、地獄という比喩表現が似合う世界へと足を踏み入れる。
廊下を歩き進んでいた際の状態から、わずかではあるが外の世界の恐ろしさを想定していたものの、地平線へ近づきつつある巨大な発行物から放たれる熱は、その想定を絶する物であり、昇降口で固めた薄っぺらい覚悟を打ち砕くのには十分だった。
当然、覚悟を打ち砕かれると同時に、身体を破壊する熱を浴びた僕は、自然と両足の動作速度を低下させ、全体の姿勢を悪化させてしまう。
気付かぬうちに隣を歩いていた彼女も、流石にこの猛暑には言葉を発する事が出来ないのではと、一瞬彼女の顔を確認するが、その表情には一切の歪みが取れない。
それどこか、夏が近いや、夏休み何をすると言った他愛もない内容の会話を、僕の返答がないのにも拘らず、意気揚々と口から放ち続けている。
学校の敷地から離れ、付近に位置する住宅街に足を踏み入れ、数分間歩き進もうとも、彼女の口が閉ざされる事はなく、表情に一切の曇りがないだけでなく、その顔には微塵の汗も流れていない。
「……ねえ、暑くないの?」
声を発する気はなかったのにも拘らず、自然と口から零れだした、心の奥底からの質問に対し、彼女は数秒間考えるような仕草を取った後に、少し引きつったような笑顔で言葉を返した。
「多少は暑いけど、他の人と比べて耐性があるから平気かな。少し前まで、ソフトボール部だったからね」
「そうなんだ。……だったって事は、今はもうやめたんだ」
「……うん。少し前にね」
そう言う彼女の表情はどこか寂しそうで、悲しげに見えた。
教室内でも、屋上でも、図書室でも目にした事のないその表情に、辛い事を思い起こすような、質問してはならない事を質問してしまった事を悟り、思わず口を閉じる。
その表情から察するに、部活で何かあったのだろう。
それが屋上での出来事に直結する嫌な出来事が起こったからか、一切関係ない出来事が発生したからかは不明だが、部活動の事を彼女が思い出したくなく、思い出せば辛い感情を呼び起こしてしまうという事は、彼女の様子から理解出来る。
彼女がただのクラスメイトであり、本音を言うのであれば、出来る限り関わりたくないのは事実だが、それはそれとして、彼女に辛い思いをさせたいという気持ちはない。少しでも辛い思いをさせてしまったのであれば、罪悪感が浮き出てしまう。
胸に小さな痛みを感じながらも、空気を換えるべく、話題を変える一言を放つ。
「……僕は帰宅部だよ。特にやりたい事もなかったし、興味もなかったしね」
「え、もったいないよ。高校生活は一度きりなんだから、部活も楽しまないと!」
「いや、やりたいこともないし、別に……」
「よし。それなら、明日部活を見て回ろうよ。今からでも遅くないし、今なら入りたい部活も見つかるかもよ!」
「いや……」
あらぬ方向に行きそうになっている事を察し、抑止する言葉を発しようとするも、彼女は言いたい事を言い終えたのか、数メートル先まで駆け出したかと思うと、大きく手を振りながら、昨日同様に別れの言葉を告げた。
ふと、周囲を見渡すと、そこは昨日彼女と別れた十字路。
気付かぬうちに、それ相応の距離を進んでいた事に驚いていると、物の数秒で彼女の姿は視界から消え去っており、そこには言葉を発し切ることが出来なかった男子高校生が一人残されてしまっていた。
複雑な感情を胸内に持ちながらも、軽くため息をつくと、彼女の事を頭の隅へと追いやり、今後の予定を考えながら、帰路へと戻って行った。
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