第2話 クラゲは海に溶けるらしい

「クラゲって知ってる?」


 都内の高等学校。

 全国平均で考えれば、偏差値が低い位置にあたる高等学校の立ち入り禁止の屋上。

 その屋上の危険度を下げるべく設置された、錆びついたフェンスの向こう側。

 橙色に染まる空の下、茶髪を風に靡かせる女子高生は寂し気な笑顔を浮かべながら、そう呟いた。

 

 ここに来たのに、特別な目的があった訳じゃなかった。

 数分前。僕は特別な何かがある訳もない、極めて普段通りといえる一日を終え、毎日の様に利用している帰路につくべく、教室から足を踏み出し、歩きなれた廊下を普段と変わらない歩幅で歩き進んでいた。

 その時点では普段の生活から、大きくかけ離れた、想像もできないような出来事が発生する予兆は一切として感じることが出来ず、帰路に着いた後、普段と変わらない平凡であり、幸せな放課後を送る予定だった。


 予定が狂ったのは四階から三階へと続く階段が視界に入った瞬間。

 一般的な階段の場合、階下へと続く階段が視界に入った場合、それと同時に上階へと続く階段が視界に入る。

 僕が登校している校舎に設置されている階段も、一般的な階段の一種であるため、現地点で考えるのであれば、屋上へと続く階段も同時に視界に入るのだが、一瞬視界に入った上階へと続く階段に違和感を感じた。

 変化のない日常の中に発生した小さな違和感に、自然と足は停止し、二度見をする形で、感じ取った違和感を探り始める。

 数秒間、脳内を適度に回転させ、記憶と視界の情報を照らし合わせると、想像より容易に違和感の正体を判明させるに至った。違和感の正体は、普段そこに設置されているはずの障害が姿を消しているという事実から来るものだった。

 僕が登校している高等学校では安全面を考慮し、基本的に生徒による屋上への侵入は禁止されており、屋上の扉は常時固く閉ざされている。生徒へその校則を知らしめる意味も込め、立ち入り禁止と明記された木製の看板が、障害として階段前に設置されている。

 それなのにも拘らず、普段ならばそこに存在するはずの看板が視界に入る事はなかった。そこに加えて、看板を探すべく、顔の角度を上げた際に目に入った、階段上に微かに見える構内と屋上を繋ぐ、固く閉ざされているはずの扉は小さく開かれており、その隙間からは微かな光が漏れ出していた。

 その情景から、何者かが看板を排除し、屋上へと侵入したのは明らかだった。


 一度は無視して帰宅しようとも考えた。

 しかし、湧き出てきた好奇心に、体は逆らう事が出来なかった。

 看板が無くては、勘違いして屋上へと侵入する生徒が出現する可能性がある。それを阻止するためにも、看板を発見し、元の位置へと戻さなくてはならない。

 脳内で世間体的な言い訳を考えると、心の奥底に発生した、屋上への、屋上に侵入した者への好奇心に従い、一歩ずつ階段を上り進んでいく。

 そして、全ての段差を越えた先で足を止めると、高鳴る鼓動を抑え、所々に傷が目立つ錆びついた扉を一気に開く。

 瞬間、薄暗い室内を照らす光が僕を襲った。

 眩い輝きに思わず目元を隠しながらも、眼前に広がる風景を確認するべく、ゆっくりと屋上を見渡していく。


 入学してから一度も足を踏み入れた事のない屋上。

 大部分がひび割れた、ボロボロのアスファルトに、その合間合間から生えた雑草。錆びつき、ペンキのはがれたフェンスに、いつのものかも分からない放置されている空き缶。

 その屋上自体は想像通りの、一般的と言える屋上の一つだった。

 それなのにも拘わらず、全体を見渡し終える直前で、僕の視線は一点にくぎ付けになってしまった。


 釘付けになった視線の先にいたのは、普通なら足を踏み入れる事のない、フェンスの向こう側で風に靡かれている、整った容姿を持った女子高生。

 フェンスの向こう側。つまり、安全のため、僕らを守るために設置されたフェンスを自ら飛び越え、安全とは言えない位置に立っている女子高生。

 彼女が命を投げ出そうとしているのは、その状況が物語っていた。


 言葉を交わした事のない、綺麗な茶色に染まった髪を持つ彼女は、僕が視界に入ると同時に、寂し気な笑顔でクラゲに関する質問を放った。

 フェンスを跨いだ先から放たれた、状況に似つかわしくない質問。意味は理解できても、真意は一切理解できない質問に、一層脳内が混乱していくのを感じながらも、状況を考え、彼女に対する言葉を慎重に選ぶ。


「……海の生物だよね、知ってる。それより、そこ危ないと思うよ」


「……クラゲってね、死んだら海に溶けちゃうんだよ。溶けて消えて……跡形もなくなっちゃうんだって。誰の邪魔にもならずに死ねるなんて、良いと思わない? ……だから、あたしはクラゲになりたい」


 クラゲになりたい。

 彼女はそう言い切ると、完全に振り返り、フェンスに手を掛けた。

 軽やかな動きでフェンスを飛び越えたかと思うと、付近に放置されていたバックを手に取り、欠伸をしながら僕の横を通り過ぎていく。

 理解不能な彼女の言動と行動に困惑し、何かしら言葉を返さなくてはと考えながらも、その言葉を想像して居る内に、彼女は屋上から姿を消した。

 数十秒間立ち尽くした後に、我に返ると、屋上内に転がっていた立ち入り禁止の看板を手に取り、錆びついた扉を閉め、発見した看板を元の位置へと戻した後に、周囲を確認しながら階段を駆け下りた。

 全授業終了時間からそれ相応の時間が過ぎていたから、運よく誰にも見つかる事なく、その日は下校するに至った。


 後で分かった事だが、鏑木千歌。それが彼女の名前だった。

 綺麗な茶髪と美形な顔が特徴的な、一般的な高等学校の二年生。屋上では気が付かなかったが、僕とはクラスメイトに当たる人物だったらしい。

 クラスメイトといっても、彼女と会話を交わした事は一度もない。

 彼女は明るく、誰とでも壁を作らずに接することが出来るような性格で、自ら他人に関わろうとしない僕とは、正反対に当たる人物。


 そして、僕と正反対だからこそ、彼女の行動は理解できないものだった。

 実際に彼女がそれを行おうとしていると発言したわけではないが、当時の状況から察するに、彼女は間違いなく命を投げ出そうとしていた。

 普段から楽し気で、明るく、誰からも好かれているような彼女が、命を投げ出そうとしていた。それに加えて、唐突に話したクラゲに関する不思議な話。

 正直、理解が出来ないというのが本音だった。想像する彼女の人物像とは、かけ離れ過ぎている。


 それでも翌日、僕は普段通りに学校に通った。

 普段通りに退屈な授業を受け、他のクラスメイトより一足先早く教室から足を踏み出し、部活動に参加している生徒より速く昇降口へと向かった。

 昇降口は数か月前に修繕工事を行ったためか、新築されたばかりの校舎のように綺麗で、工事を機に購入された新品の下駄箱が見栄え良く並んでいる。

 そんな新品の下駄箱の扉を開くと、予め脱ぎやすいようにかかと部分を踏んでいた内履きを脱ぎ、乱暴に投げ入れる。

 それと同時に、外履きを取り出すと、今度は丁寧に地べたに投げ置き、慣れた動きで外履きへと足を入れる。

 ここで忘れ物がないか、最終確認を軽く行うと、自宅へ帰るべく、普段と変わらない帰路へとついた。


 彼女に対して興味が全くないという訳ではない。しかし、全くない訳じゃないだけで、僕が持っている彼女への興味はミジンコへの興味と同程度だ。

 彼女への興味が薄いのは、僕自身が他人への興味を抱きにくいというのが大きな理由と言えるだろう。

 生まれつきか、周囲の環境からかは分からないが、僕は周囲と比べて他人への興味が薄い。悪く言えば、他人の事がどうでもいいのだ。

 だから、彼女がどんな行動を取ろうが、僕には関係がないし、自ら彼女に拘わっていくこともない。昨日は状況が状況であったという事もあり、珍しく行動を起こしたが、今後はそう言った事は二度とないだろう。

 僕から行動を起こさない以上、彼女と拘わることもないし、普段通りの日々が続いて行くだけだ。


 そう、考えていた。

 しかし、現実というのは想像通りにはいかないものであった。


「クラゲって知ってる?」


 帰宅途中。背後から聞こえた聞き覚えのある声とフレーズに、思わず自らの心臓が跳ね上がるのを感じた。

 振り返ると、そこには優しい笑顔を浮かべた、例の女子高生が一人立っており、動揺する僕に対し、繰り返し、同様の言葉を放ってきた。

 脳内に浮かぶ様々な疑問や感情を整理しながら、彼女の言葉に対する返答を導き出す。そして、極力平静を装った声で、彼女の質問への答えを返す。


「知ってるよ。死んだら海に溶ける生物でしょ」


「……クラゲってさ、海に月でクラゲって読むんだけど、水の中を泳ぐ姿が月のように見えたことが由来らしいんだよね。ロマンティックで、素敵だと思わない? ……だから、あたしはクラゲになりたいんだー」


「確かに……それは素敵な由来かもね」


「でしょー!」


 彼女はそう言うと、嬉しそうにニッコリを笑った。

 昨日とは別人のように、明るく、優し気な表情の彼女に軽い警戒心を持ちながらも、彼女が続く言葉を放たないのを良い事に、再び帰宅するべく足を動かし始める。

 それを目にした彼女は軽い駆け足で僕の隣に並んだかと思うと、何事もなかったかのように、ゆっくりと進行方向へと足を動かし始めた。


 時間は夕暮れ。太陽は地平線に沈み始め、放課後の遊びを終えた小学生は帰路につく時間帯。

 空は昨日と同様に橙色に染まり、少し離れた所からは、家へと向かう子供たちの活気ある話し声が聞こえてくる。よく耳を澄ますと、微かにアブラゼミの懐かしい鳴き声も聞こえ、今が夏の始まりである事を感じさせる。

 普段ならば、その季節を感じながら、近い将来を想像するなり、周囲の情景を想像するなどし、時間を潰しながら、自宅へと向かっている頃だろう。


 しかし、今日に関しては季節を感じる余裕すらない。隣を歩く彼女の目的を考え、彼女への対策を考えなくてはならない。

 彼女は何故、僕の前に現れ、こうして共に帰路を歩き始めたのか。

 昨日の屋上での出来事が関わっているというのは間違いないが、彼女の思惑に関しては断定できない。

 勝手に理由を想像するのであれば、昨日の屋上での出来事を口止めするべく、僕を追って来たという可能性が一番ありそうだ。

 彼女の考えを想像し、自らの取るべき行動を考えていると、予想外に彼女の方から口を開いた。 


「……もうすぐ夏だね。夏休み楽しみだなー」


「……そうだね」


「海とか、夏祭りとか、楽しいイベント盛りだくさんだしね! ……あ、そう言えば自己紹介とかってまだだったよね。あたしは……」


「鏑木さんだよね。クラスメイトの」


「うん。えっと……」


「佐藤。佐藤泡加」


「そっか、よろしくね。ホウカ君」


 彼女は僕の名を聞くと、満面の笑みで言葉を返した。

 その表情は昨日自殺を図ろうとしていた者の表情とは思えない、優しく、言うなれば希望に満ち溢れた表情に見えた。

 こんな表情を目にすると、昨日の出来事が現実の事だったのか、怪しくなってくる。

 もしかしたら、幻か妄想。それか、鏑木さんに似た別人だったのかもしれない。

 彼女の様子からそんな考えが浮かんで来たが、その考えは一瞬で失われた。


「ねえ、ホウカ君って変わってるね」


「……名前がって事?」


「いや、そうじゃなくてさ。昨日の事だよ。普通、クラスメイトが自殺しようとしてたら、先生に行ったり、大騒ぎしたりすると思うんだけどなー」


「……やっぱり鏑木さんだったんだ。まあ、別に、僕からしたら、どうでも良い事だし」


「えー、どうでも良いなんて辛辣だなー」


「他人の事なんだから、当然だよ。クラスメイトでも、所詮他人だし。僕は他人の事も、周りの事も……全部興味ないからね」


「興味ないって……もったいないなー。それこそクラスメイトのみんなだって、良い子ばっかりで、みんなと仲良くしたりしたら、凄く楽しいと思うよ?」


 そう話す彼女の表情は明るく、やはり希望に満ち溢れているように見える。

 そんな表情もあったからだろうか。彼女の言葉を耳にすると同時に、一つの疑問と違和感が生まれた。

 そして、普段から同世代と言葉を交わさない事が影響してか、脳内で考えを巡らせるより先に、自然とその疑問は口から零れだしていた。


「じゃあ、なんで自殺しようとしたの?」


 考えるより先に放たれた、真直ぐな疑問。

 言葉が口から放たれ、自らの耳に入った所でようやく自分の放った言葉の意味を理解すると、瞬時に我に返った。

 自殺しようとしていたクラスメイトに対し、濁す事無くその理由を問う。これが良くない事であるのは、人と話す機会が少ない僕でも理解できる。

 言葉を受けた彼女の表情を恐る恐る確認するが、その表情に変化は見受けられず、数秒前の彼女と変わらない様子だ。疑問が聞こえていなかったのか、顔に出さないようにしているのか、大した感情を抱いていないのか。

 脳内をフル回転させ、彼女の心情を探り始めると同時に、その思考を止めるように彼女が口を開いた。


「なんでか……知りたい?」


「……別に、どっちでも良いよ」


「またまたー、知りたいくせに。……けど、その答えは今は内緒かな。また、今度にでも教えるよ。またね、ホウカ君!」


 彼女は軽く笑うと、別れの言葉を残し、彼女は十字路を右へと進んで行った。

 僕はただそれを見送ると、表現できない感情で再び帰路を進みだした。


 この時、僕はまだ何も理解していなかった。

 彼女の抱えるもの。彼女の思い。

 そして、クラゲとは何か。

 何一つ、理解できていなかった。

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