第9話 ファーストキス?
と、そのときだ。
「何事かと思えば……」
耳元でゾクリとするほど冷たい声がした。
突然の声にぎくりと肩が跳ねる。
その跳ねた肩に腕が回り、後ろから抱きすくめるようにユーリの体がディアーナの背中に密着する。触れた体温はひどく熱かった。
ユーリは窓から顔を出し、人影の方へ殺気だった鋭い視線を投げる。
「《去れ! 二度と戻るな!》」
身の竦むような、低い声だった。
それは、魔物を追い払うときの声と同じだったが、それ以上に憎々し気な、吐き捨てるようなものだった。
それでも、結果は同じだった。
ディーターとスヴェンは一言も発することなく回れ右すると、草むらの中に消えてしまった。まるで、役目を終えて舞台袖に引っ込む役者のように。
「な、何をしたの……?」
魔術師のやることだ。
常人にわかるわけがない。
だから聞いたって意味はない。
そう思うのに、聞かずにはいられなかった。
あんなに気遣いのできるふたりが、ディアーナに何も言わず、この場を去るわけがないのだ。あまりに唐突な退場は、ディアーナの心をひどく乱した。
「君につく悪い虫を追い払った……ただそれだけだ」
ふいにユーリの腕の力が緩んだ。
あっと思う間もなく、ユーリの膝から力が抜け、ディアーナを抱きすくめていた腕が全て解ける。
「ユーリ⁉」
糸が切れたように崩れ落ちそうになるユーリを、ディアーナはとっさに腕を伸ばし支える。
細身に見えるが、やはりずしりと重い。
ディアーナはユーリを支えながら、どうにか床に座ると、膝の上にユーリの頭を乗せた。
ユーリはきつく目を閉じ、苦し気な呼吸を返す。
乱れた前髪を直すとき、触れた頬はとても冷たかった。
「ユーリ、大丈夫? お水が必要?」
ユーリが倒れてしまったという事実に、動揺してしまうが、何とか平静を保たなくてはとディアーナは自分を叱咤する。
使用人を呼ぼうかと考え、けれど主人でもない自分が呼んで、果たして彼らは来てくれるだろうかという疑念がわく。
できれば、ユーリを寝台に運びたい。とはいっても、自分一人では到底無理だ。
おろおろしながらも、ユーリの体ができるだけ楽なようにと、ディアーナは痺れてきた足を一切動かさないように身じろぎさえも我慢した。
「ディア……」
ユーリは瞼を持ち上げ、潤む瑠璃色の瞳をディアーナに向ける。
「君は逃げないんだね。今なら逃げられるのに」
苦し気に紡がれる声は、どこか悲愴だ。
聞いているこちらが、胸を絞られるような気持ちになる。
ディアーナはだらんと床に落ちたユーリの手を掬い上げると力強く握った。その手は氷のように冷たい。
「逃げないわ。だって、約束したもの」
だから、これ以上、悲しそうな顔をしないでほしい。なぜだかとても胸が痛むのだ。
「ねぇ……さっき、ユーリって……呼んでくれたよね?」
いつも以上に白い顔に、力ない笑みを浮かべるユーリが大儀そうに瞬きする。
「うん? そうだった……?」
言われるまで気が付かなかった。
ユーリが倒れたことで気が動転し、名を呼んだかすら覚えていないが、思い起こせばそんな気もする。失礼だっただろうか。気に障っただろうか。でも、ユーリだってずいぶん最初から「ディア」なんて気安く呼んでいるではないか。お互い様なのに、ディアーナを許してくれないのだろうか。ディアーナが不満げに口を曲げると、ユーリは笑った。
「じゃあ、期待しても……いいってことかな」
どこかぎこちない、複雑な微笑み。けれど、笑うということは、どうやら気分を害したわけではないようだ。ほんの少しだけ安堵する。
「ねぇ、ちょっと耳を貸して」
消え入りそうな声で紡がれる言葉に、胸が締め付けられた。
話す気力もなくなってきたのだ。
言われた通り、ディアーナはユーリの口元に耳を近づけた。
「ディア、こっちを向いて?」
ディアーナは言われるがままに、顔を向けようとして、上体を上げかけたが、いつの間にか回ったユーリの腕がディアーナの後頭部を抑えていた。
「⁉」
驚いて、顔を動かすと、鼻先があたるほどの近さに、美しい顔がある。
潤んだ瑠璃色の瞳には、ディアーナの驚いた顔が映っていた。
「久しぶりだ」
甘い吐息交じりに言って、ユーリはディアーナの頭を自分の方へ引き寄せた。それからディアーナの唇に自分の血の気の引いた薄い唇を押し当てた。
呼吸が止まる。
時も止まってしまった気がした。
それから数秒、ふたりの唇は触れたまま離れなかった。
——それはディアーナの知るかぎり、はじめての口づけだった。
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