第7話 屋敷からの脱出②

 ご機嫌なユーリとの気まずい夕食を終え、そそくさと部屋に戻って来たディアーナは部屋の中を歩き回っていた。


「神父様だけじゃない。子供たちだってきっと心配しているはず」


 今日一日作業してわかった。

 この仕事はひと月経っても終わりそうにない。どう考えたって長丁場になる。

 だから、どうにか神父様に連絡を取って、現状を伝えたい。もちろん、助けてくれとは言えないけれど、せめて自分が魔術師の屋敷にいるという事実を知っておいてほしい。


「……とは言いつつ、期待してしまうわね」


 神父様が、ユーリに掛け合って、この状況を打破してくれるのを期待している自分がいる。だって、どう考えたって無謀な取引だ。こちらの分が悪すぎる。


「とにかく、逃げ出さないと」


 ディアーナは決意を固め、部屋中の灯りを消して回り、寝台の縁に腰を下ろした。

 

 それからじっと時を待った。そして、欠けた黄色い月が空の真上に上ったころ。

 ディアーナは意を決して立ち上がり、バルコニーに続く窓を静かに開けた。

 ひんやりとした風が吹いている。夏が近づいて来てはいるが、まだまだ芽吹きの季節。夜にでもなれば、まだまだ肌寒い。

 半月型の手摺に近寄って手を着くと、庭を見下ろした。伸び放題の下草は柔らかそうに見えるが、果たしてクッションになってくれるだろうか。

 ここは二階だ。飛び降りれば、足を挫くかもしれない。けれど、玄関から堂々と逃げ出すわけにはいかない。きっと、ユーリが気づいてまた同じことの繰り返しになる。しかも、今度はもっと怒らせるかもしれない。


「よしっ!」


 思い切って足を手摺に掛けようとしたそのとき——


「どこへ行くつもり?」


 ひやりとするほど冷たい声にぎょっとした。その声の響きのせいか、とたんに身動きが取れなくなる。手摺を掴んでいた手を放すことができず、心臓が煩いくらい胸を叩く。


「君がここを出るための条件は、すでに提示したはずだよ?」


 カツカツカツと、背後から迫り来る足音は、その一歩が処刑台への宣告のように恐怖を煽った。


「それに、ここは二階だ。飛び降りて、無事で済むとは思えないな」


 足音が止んだ。

 恐怖を振り切るように、ディアーナは振り返った。

 ユーリがいた。

 窓枠に寄りかかって、腕を組む姿は今朝方のことを思い起こさせる。

 だが、その目には朝のような怒りは感じられず、むしろ余裕すらあるように見える。

 とはいっても、鋭いことに変りはなく、瑠璃色の双眸は射るようにディアーナを見据えていた。

 さらりとした宵闇色の髪が月の光できらきらと光る。

 時と場所が違えば、魅入られてしまったであろう若く美しい魔術師。

けれど、その〝魔術師〟という名が示す通り、彼には得体の知れない怖ろしい面がある。


「それに、君はまだ取り返していないでしょう? 手ぶらで帰ったら、子供たちが悲しむんじゃない?」


 まるでいたぶるように、彼は言葉を紡いだ。


「それは……」


 何とか反論したいと思うのに、言葉が続かない。


「だって、君はそのためにわざわざこんな辺鄙なところまで来たわけでしょう?」


 口の端を上げたユーリに、ディアーナは息を呑んだ。


「責任感の強い君のことだ。何もかも投げ出してここを出るなんてできないよね?」


 窓枠から身を起こしたユーリは、獲物に近づく獣のようにバルコニーに足を踏み入れる。

 思わず後ずさりしかけるが、腰が手摺にぶつかってしまった。

 一歩、一歩と近づいてくるユーリに、成す術もなく息を詰めた。

 お互いの額がぶつかってしまうのではというほど、距離を詰めてきたユーリは、そこでようやく足を止めた。

 長く白い手を、ディアーナの頬に伸ばす。

 それから、まるで愛しい者に触れるように、その指で強張る頬を撫でた。


「ねえ、ディアーナ。君は賢明な判断をすべきだ。僕を失望させないでよ」


 面白そうに言って、ユーリは唇をディアーナの耳元に寄せる。

 そして、クスクスと笑った。


「ここにいるかぎり、君は僕の掌の上にいるも同然さ。従順でいることだね」


 ユーリの笑い声と、その吐息とが耳朶をくすぐる。

ディアーナは顔を真っ赤にしてぎゅっと目を瞑った。

くすぐったさと、羞恥とが混じり合い、頭が混乱してくる。


「まあ……僕としては、ずっとここにいてもらって構わないのだけれど」


 ユーリの柔らかいさらりとした宵闇の髪が、ディアーナの肌に当たり、離れた。


「さあ、捕らわれのお姫様。夢の世界へご案内しましょう」


 大道芸の演者のように気取った様子でユーリはディアーナの手を取った。それから、ごく自然にその指を絡めてくる。とっさに抵抗したディアーナだったが、思いの外強い力に無理矢理にねじ伏せられ、全ての指の間に彼の指がするりと入り込むのを許してしまう。

 それが悔しいやら、恥ずかしいやら……

 ディアーナの心臓は狂ったように脈打つ。このままいけば壊れてしまいそうだ。


「さあ、寝台へどうぞ」


 混乱する頭、荒れ狂う感情の波のせいで、反論も反撃もできないまま、ディアーナは唇を噛むしかなかった。







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