第6話 屋敷からの脱出①

 翌日、楽し気なユーリと朝食を共にしたあと、ディアーナはひとり黙々と作業を開始した。

 灯りを持ち込むわけにいかない書庫での作業だ。

 動けるのは日が出ているうちだけ。


「まあ、日中働くのはいつものことよね……って! あああ‼」


 ディアーナは書庫中に響き渡る大声を上げた。


「待って、待って。そうだわ! 私……」


 いろんなことがありすぎてすっかり失念していたが、ディアーナは教会の下働きなのだ。

 掃除や洗濯、諸々の雑務がディアーナの仕事なのだ。

 だというのに、その仕事をほっぽり出して、黒き森の屋敷にいる。


「帰らなくちゃ!」


 手にしていた本を戻し、衣服の誇りを払うと、ディアーナは急いで書庫を飛び出した。


「もう、何て言い訳しようかしら⁉ 無断外泊もしてしまったわ! 神父様怒るわよね⁉」


 いつも温和な神父様が、額に青筋を浮かべているところを想像して、さっと顔が青ざめる。

 荷物らしい荷物はない。焼き菓子と酒瓶を入れた小籠は既にユーリの手に渡っている。

 長い廊下を走り抜け、ゆるやかな曲線を描く階段を駆け下り、一目散に一階の扉を目指す。

 だが、辿り着いたそこには、腕を組んで、冷たい光を湛える瞳を細めたユーリがいた。扉に背を預け、まるで通せん坊するかの如くである。

 あと三段で床に着くというところで、ディアーナは足を止めた。

 心臓がドキリと音を立てる。


「そんなに急いでどうしたの?」


 その声音は氷のように冷たかった。


 ディアーナは冷や汗をかきながら、しどろもどろに答える。


「えっと、無断外泊と、仕事のすっぽかしと、諸々の件で、教会に帰らねばと」


「ふーん」


「あの、必ず戻ってきますから!」


 そう、一度帰宅して、神父様に事情を説明したらちゃんと戻って来るつもりなのだ。約束は約束だ。必ず、手紙を探し出すつもりでいる。


「必ず、戻る?」


 だが、ディアーナの真摯な気持ちは全く伝わらないようで——

 ユーリは不機嫌そうに鼻をならし、殺気すら感じさせる視線をディアーナに向けた。そして、ゆらりと扉から体を引きはがし、組んでいた腕をだらりと垂らす。


「あのっ……」


「ディア、君はこの屋敷に不法侵入した」


「え?」


 いきなり何を言い出すのだろう。

 不法侵入?

 寝耳に水とはまさにこのことだ。

 ディアーナは確かにユーリ自身に招かれ、この屋敷に入った。

 反論しようとするが、その隙は与えられなかった。


「君が魔物に襲われたのは、この屋敷の庭だよ」


 庭——?


「で、でも、私、門を通った覚えは……」


 屋敷はぐるりと黒い鉄柵で覆われている。

 先端が槍の形をした高い柵で、幅は狭い。だから、超えることは困難だし、通り抜けることは不可能だ。だが、中に入るには門を通るしかない。けれど、ディアーナは森を歩いていただけで、柵を越えた覚えも門を通った覚えもなかった。


「柵は修復中でね。一部、壊れかけているところがあるんだ。君はそこを通って来た。穏便に済ませたくて敢えて言わなかったんだ。でも、君が約束を違えるつもりなら、僕にも考えがある」


 妙な威圧感を纏ったユーリが近づいてくる。

 その迫力で、ディアーナは手摺に手を置いたまま、足が竦んで動けない。

 だが、ディアーナは手摺にしがみついたまま、足が竦んで動けない。

 魔術師とはいえ、相手は同い年くらいの少年だ。

 だのに、放たれる異様な気は、同世代とは思えない。

 階段に尻もちをついたディアーナの眼前に、ユーリが迫った。

 ユーリは手摺に置いたディアーナの手首を掴み上げると、ディアーナの顔をぐいっと自分の方へと引き寄せる。息のかかるほど近くにあるユーリの顔に、息が詰まる。


「君がこの屋敷を出るには、僕の隠した鍵を見つけないと駄目だよ。君の自由は鍵と引き換えだ」


 鍵……?

 間近に感じるユーリの息遣いに、身が強張った。

 彼の肌から匂い立つのは、甘い花の香りだ。

 魔術師から花の香りがするなんて不思議ねなどと頭の隅でどうでも良い思考が過る。


「鍵は自由、手紙は子犬。しっかり頭に刻んで?」


 そう囁いたユーリは、すでに怒りを鎮めたようだった。その代わり、嗜虐的な笑みがその顔に刻まれている。


「さあ、書庫に戻るんだ、ディアーナ」


 呆然とする頭で何とか書庫に戻ると、ディアーナは作業を再開した。傍から見れば熱心に取り組んでいるように見えるが、その実、内心は荒れ狂っていた。


(あれは何だったの⁉ 二面性⁉ 怖すぎる! 怖すぎるわ、魔術師‼)


 昼食にと呼びに来たであろう使用人を追い返し、ひたすら作業に没頭する。


(これは逃げなくちゃダメ! あんなのただの人間じゃない! 絶対、危険!)


 そうこうしているうちに、書庫に差し込む光が橙色に変わり、ほどなくして夜が訪れた。


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