第4話 黒き森に住む魔術師②

 熱いお茶を一口含み、ごくりと飲み下す。

 香りなど楽しんでいる余裕はない。

 ディアーナは素早くカップをソーサーに戻すと、まっすぐユーリの顔を捉えた。それに気づいたのか、ユーリの方でも話を聞く体勢になる。


「あの、実はお願いがあってこちらに伺ったんです」


「お願い……?」


 ユーリが小首を傾げるので、ディアーナはこくこくと頷いた。


「このお屋敷に、子犬が逃げ込んでしまったんです。黒くて……全身真っ黒な子です。村の子供たちがうっかりこのお屋敷に近づいてしまって、そのとき抱いていた子犬……クロスケっていうのですけど、そのクロスケがこちらのお庭に入り込んでしまったみたいで」


「ああ……その子なら」


 ユーリはどこからともなく小さなベルを取り出してリリンと鳴らした。

 すると、すぐに使用人のひとりが入って来た。

 しかも、その腕には——


「クロスケ!」


 思わず立ち上がったディアーナを見、クロスケは「ワン!」と一声吠えてから、使用人の腕をするりとすり抜け、駆け寄ろうとしたディアーナではなく、優雅に座るユーリの膝の上に飛び乗った。

 足を出しかけていたディアーナは唖然として、魔術師の膝の上に収まる子犬を見やった。

 ぴんとした三角の耳に、柔らかそうな巻き毛の子犬。

 まさしくクロスケである。そのはずなのだが——


「この子犬を返してほしいってことだよね?」


 ユーリは子犬の頭を撫でながら、問うようにディアーナを見る。


(クロスケって、こんなに人懐っこかったかしら……?)


 子供たちには気を許してはいるが、村の大人たちには吠えたてることも少なくなかった犬だ。ディアーナは例外で、子供たちと仲が良いからか、もしくは大人認定されていないからか、認めてくれているようだったが。

 そのクロスケが今朝方出会ったばかりの人の膝に飛び乗った。しかも魔術師という変わった人種の少年に、である。何だか信じられない光景だ。

 しばし放心していたディアーナだったが、気を取り直して椅子に座り直す。


「はい、そうなんです。今後、二度とこのお屋敷に入り込まないように、しっかり言い聞かせますので」


「それは、子犬にってこと? 子供たちに?」


 ユーリは口元に指の腹を当てると、面白そうに訊ねてくる。


「え? ええ……どちらにも言い聞かせるつもりです」


「どうだろうね。いたずら盛りの子犬や子供に、ちゃんと言い聞かせることは可能だろうか」


「そ、そうですね……確かに、骨の折れる仕事にはなりそうですけれど、でも、みんな素直でいい子たちですから、真摯な気持ちで諭せば必ず——」


「……どうやら君は何にも変わらないらしい」


 ぼそりとユーリは呟いて、それから少しだけ目を細め、ディアーナを見つめた。

 その瞳に浮かぶ複雑な色に、ディアーナは狼狽えた。

 ややして、ユーリはすっと表情を改めると、背凭れにゆったり背を預け、足を組み、膝の上に手を重ねて乗せる。


「返すには条件があるんだ」


「条件……?」


 条件という不穏な響きに、反射的に身構える。

 そんなディアーナを面白がるように、ユーリは口の端を三日月の形に持ち上げる。


「そう、条件。君たちがクロスケと名付けた子犬なんだけれど、僕もね、名付けたんだ。リューゲって。とても可愛らしい子犬だよね。だから、すっかり気に入ってしまってね。さっきなんか、これからリューゲと過ごすだろう輝かしい日々を夢想していたんだよね。だけど、そこへ君が現れた。そして、君はそのリューゲを返せという」


 ユーリは組んだ足を戻し、もの悲しそうな色をその瞳に浮かべた。

 笑っている口元が、余計に哀れを誘う。


「僕は孤独なんだ。だから、寄り添ってくれる温かい存在を欲していた。今朝方のことだ。乾いた心を持て余し、庭を眺めることで少しでも気分を紛らわそうとしていたときのことだった。草の間からリューゲがひょっこりと顔を覗かせたんだ。神の御導きかと思ったよ。リューゲも僕を見ると駆け寄ってきてね。まるで生き別れた家族が再会したかのようだった」


 まるでひとり芝居のように語り続けるユーリは、表情をころころと変えた。

 この世の全ての不幸を背負ったかのように話し始めたと思ったら、最後は感動にむせび泣くかのように感極まり、目を潤ませている。

 それはあまりに大袈裟で、大仰な物言いだったのだが、役者の容貌と聞き惚れるほどのテノールの美声のためか、ついつい見入ってしまった。


「僕はリューゲと過ごす日々を思い浮かべて幸せに浸っていたんだ。けれど、それも全て消え去った。だって、リューゲはクロスケだったのだから」


 ユーリはそう言って、揺らぐ瞳をディアーナに向けた。


「僕も大人だ。子供たちの遊び相手を無情にも取り上げようなんて思わない。だけど、救いが欲しい。僕の心の隙を埋めてくれたリューゲの代わりが……」


 見つめられ、居心地の悪くなったディアーナは視線を逸らし、曖昧に頷く。


(クロスケの代わりってことは、代わりの子犬を探せってこと……?)


 村には何匹も犬はいるが、現在子犬がいる家が思い浮かばない。

 それに、もし仮に子犬がいたとして、森に住む魔術師に譲ってくれる親切な人などいるだろうか。


(子犬じゃなくてもいいのかしら……? 例えば、成犬でも? そうだとしても、思いつかないわ。じゃあ、他の動物……?)


 森には様々な動物が住んでいるが、クロスケほど手なずけるのは至難の業だろう。

 あれこれと考え込んでいると、ディアーナのカップの傍に、焼き菓子の載った皿が置かれた。はっとしてそちらを見ると、ユーリがわざわざ移動させたようだった。


「どうぞ、温かいうちに」


 見れば、ユーリは先程の感傷などなかったかのように、悠然と微笑んでいる。


「で、条件というのがね。あるものを探してほしいってことなんだけど」


「ある、ものですか?」


「そう、僕にとってはとても大切な物でね。宝物なんだ」


「宝物……」


「手紙、なんだけれど。僕のうっかり者の友人……そう、ルカが、本の中に挟んだままにしてしまったんだ。僕も仕事があって悠長に探していられない。どうだろう? クロスケを返す代わりに、その探し物を手伝ってくれないかな?」


 代わりの動物をと考えていたディアーナは拍子抜けした。

 どうやら、見当違いをしていたようだ。


(探し物、ね。それなら簡単だわ)


 ディアーナはぎゅっと拳を握り込み、力強く頷いた。


「お任せてくださいませ!」


「良かった。これで交渉成立だね」


 ユーリは口の端を持ち上げると、それを隠すかのように冷めたカップからお茶を啜った。

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