第1話 黒き森の魔物
「おお、かみ……?」
眼前の黒い霧が、数匹の獣だとわかったときには遅かった。
振り向けば、既に背後にも靄を纏った黒い獣が立ち塞がり、退路を断たれている。
「な、なんで……魔物が……?」
吐き出した声は、酷く震え、それが耳に入ると、さらに恐怖が増した。
腰辺りまで長く伸びた下草が、さわりと音を立てる。
伸び放題の草の中、ディアーナは黒い靄を立ち上らせる狼のような獣に取り囲まれていた。獣の目は赤く輝き、開いた口からは無数の尖った歯と、その間からねっとりとした唾液が滴っている。その獣の放つ、地を這うような唸り声が、ディアーナを震え上がらせた。
「どう、して……?」
なぜ、黒き森に魔物がいるのだろう。
確かに、幽鬼や狼などの獣が出るという話を聞いてはいたが、それはもっと森のずっと奥だったはず。
しかも、それは通常の獣だ。
こんな禍々しい気を放つ魔物ではない——
けれど、ディアーナの周囲を威嚇するように取り囲むのは、明らかに単なる獣ではない。魔物と呼ばれる存在だ。今までバルム村の周辺では一度も見たことがない。
いくら、不穏な噂の絶えぬ黒き森だといっても、魔物がいるとは思わなかった。
だから、安請け合いして、黒き森にあるという屋敷へひとりやってきたのだ。
もし、魔物がいると知っていたら、立ち入ったという子供たちに「危険だから絶対行ってはダメ」と𠮟りつけなくてはならなかっただろう。
ディアーナはとっさに自分の姿を確認した。
着ているのは、頭の覆いつきの黒いローブだ。今もおさまりの悪い金の髪を仕舞い込むために被っている。その下は、お下がりの修道服で、ひらひらとしていて走りづらい。革の
(武器といったら、この酒瓶くらいね)
だが、瓶を振り回したくらいで、この魔物たちを追い払えるとは思えない。
たとえ、投げつけたとしても、一頭を怯ませるくらいのことしかできないだろう。むしろ逆上させて、余計なことになるかもしれない。
周囲に目を走らせれば、魔物はじりじりとディアーナに近づいて来ている。
このままいけば、数秒後には間合いを詰められ、瞬く間に命を奪われるだろう。
ディアーナは震える手で酒瓶の首部分を握った。
一か八か、戦うしかない。
震える手でしっかり瓶を握り込み、思い切り頭上に振りかぶったそのときだった。
「《鎮まれ……そして、とっとと失せろ》」
突如、凛とした声が響いた。
それは、湖面に落ちた一滴の水滴のように、確かな波紋を広げていく。
全身から靄を放っていた魔物たちは、刹那、びくりと動きを止めると、さっと身を翻し、喘ぐような咆哮と共に宙に霧散した。
静かな中に響くのは、ディアーナの乱れた呼吸だけになった。
魔物の気配が消失したことで、一気に緊張が解けた、ディアーナは酒瓶を取り落とした。
今まで立っていたことが不思議なくらい、へなへなとしゃがみ込む。
「た、助かった……のね」
生き延びられたことを主神ゾラーグに感謝しようと胸の前で手を組んで瞼を閉じかけたとき、人の気配が近づいて来ることに気が付いた。
顔を上げれば、ひとりの少年がいた。
宵闇色の髪はさらりとしていて、前髪がその下の瑠璃色の双眸を半ば隠している。
透き通るような白皙の顔貌はあまりに美しく、まるで人形のようだった。
「不法侵入——」
形の良い唇を動かし、少年は何事かを口にしようとしたが、ディアーナの顔に視線を止めると驚いたように目を見張り、思わずというように言葉を飲み込んだ。
「……な、ぜ?」
代わりに、喉から絞り出すような掠れた声でそう言うと、額を手で押さえ、ふらりとよろめいた。
「だ、大丈夫ですか⁉」
ディアーナはへたり込んでいることも忘れ、さっと駆け寄ろうとした。が、上手く立ち上がることができず、いたずらに膝を地面に打ちつけることになった。
「ああ、大丈夫……少し眩暈がしただけだから。でも、もしよければ、手を貸してくれないか? すぐそこに屋敷があるから」
「は、はい!」
ディアーナは今度こそ立ち上がることに成功し、衣服についた土や枯葉を軽く払うと、少年に駆け寄った。
背丈は、ディアーナより頭半分高いくらいで、年の頃も十五、六歳のディアーナとそう変わらないように見えた。
少年は、ディアーナが差し出した手に、ひやりとするほど冷えた手を乗せ、ぎゅっと握り締める。そのゾクリとするほど冷たい手に驚いた。
「じゃあ、行こうか」
少年は口の端を上げて、不敵な笑みを浮かべた。
「え?」
その表情に戸惑っていると、少年は強引にディアーナの手を引き、ややふらつきながら歩き出す。
「僕はユーリ。君は?」
「あ、えっと、ディアーナです。バルム村の者で、教会の下働きをしています」
「そう。じゃあ、ディア。屋敷はこっちだから」
足取りが怪しいわりには、ディアーナを引く腕の力は強い。
何となく釈然としないながらも、ディアーナは手を引かれるままに足を動かした。
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