第35話 約束ときっかけと、大切と。
「おはよう、二人とも。昨晩はじっくりねっとり愛し合ったでしょうから寝不足だと思うけれど、一日頑張りましょうね」
良さげなホテルの前で、都子さんは相変わらずよくわからないことを言っている。
さっそくため息をつきたくなるけど、その装いと美貌のせいで人間的なヤバい部分がかなり緩和されているので、何ともまあ悔しい。
さすがは寧子さんのお母さんだ。
外行きようにお洒落した、俺の横にいる寧子さんも行き交う人に見られるくらいの綺麗さだが、都子さんもそれに負けないくらいの見た目をしている。
ルッキズムの権化ではないけど、それでもこの美人具合は母娘揃ってとんでもない。
お父様はきっとこの二人が宝物だろうなぁ、と想像する。
「お、お母さん。それで、今日は一体どこへ行くの? まだ私たち何も聞いてないけれど……」
寧子さんが問いかけると、都子さんは「ええ」と頷き、
「三人でラブホテルへ」
「あのですね、都子さん? 俺たち今日は」
「なんて言うと、表面上お堅い寧子の飼い主くんがうるさいから、まずは水族館にでも行きましょうか」
嫌なフェイントの掛け方である。
しかも、『表面上』って何だ。
お堅いっていうのも自分では全然そんなこと思わないし、むしろ異常なのは都子さんで間違いないはずなのに。
「電車とタクシーでの移動になるけれど、そこはすべて私が出すから大丈夫よ。物田君、あなたは寧子に白濁液だけ出してくれていればいいから」
「あの……普通にここ人が行き交ってますからね? 俺たちだけじゃないんですよ? 俺のアパートの部屋じゃないですからね?」
「そんなこと当然知ってるわよ。舐めないで頂戴。あなたはまたまだ。人に見聞きされる程度で羞恥を覚えるなんて、そんなのは飼い主として未熟」
「そうですか。それは嬉しいです。よかったです」
「公衆の面前で寧子に恥ずかしいことをやらせないといけないのだから、羞恥心なんてまずはあなたから捨てないと。私なんて昼下がりに何度お父さんを四つん這いで散歩させてたわよ?」
「よく捕まらなかったですね。不思議で仕方ないです」
「ほら、今日も寧子に玩具の一つや二つしっかり仕込んでる? 調教はこういうところから始まってるのよ? いい?」
失礼ながらお母様のお頭の方が『いい?』と問いたい。大丈夫ですか、と。
そのくらい、俺は初っ端からゲンナリしていた。
本当にブレないなこの人は……。
「お母さん、あまりあーくんを追い詰めないで……? あーくんも大変なんだから……」
寧子さん……。
俺のことを想ってくれてるんですか……。
感動していた矢先のことだ。
ふと彼女が自分の首元へ「カチャリ」と何かを付け、息を荒らげながら俺の手首をサワサワして、革製のものを渡してくる。
「あ、あの……寧子さん……?」
頬を引き攣らせながら疑問符を浮かべていると、完全にダメな光を瞳に灯したいつもの彼女が口元をだらしなく緩ませ、こんなことを言ってくる。
「玩具は無いですけど……リードはちゃんと持ってきてます……。これで今日は一日……あーくんに引っ張ってもらおうかと……」
寧子さんのとんでもない発言を受け、都子さんは静かにハンカチで目元を拭っている。
一体感動する要素がどこにあるのか。
申し訳ないけど、泣きたいのはこっちだ。
とんでもない変態プレイに付き合わされそうになってる俺の身にもなって欲しい。
「物田君、何をグズグズしてるんですか。早くそのリードを持って寧子を引っ張りなさい」
「え……引っ張るって……どこまで?」
「どこまで、なんて明確に距離があるわけないでしょう? 今日一日中ずっとですよ。寧子の今の発言を聞いてなかったのですか?」
たぶん、今日一日で、俺は通りすがる人全員からヤバい奴として見られるんだろう。
心の中で泣きながら、寧子さんと繋がっているリードを握りしめるのだった。
●○●○●○●
というわけで、始まった変態プレイ……ではなく、三人デート。
行き先として、まずは水族館。その次にお昼は中華街へ行って、それから先はカラオケに行こうという話になった。
なぜ都子さんも交えてカラオケ……? とは思ったものの、休憩も兼ねて個室でゆっくりするのもいい、とのこと。
一応その時は「そうですか」と何気なく返事していたが、ただ歌を歌って、で終わるわけがない。
おそらく今日の戦いの山はここだろうな、と見定めつつ、俺は歩いた。
首輪を付けた寧子さんを引っ張って。街の中を。
「それでは、大人三人で計6300円になります」
言っていた通り、颯爽と都子さんが入場料を支払ってくれ、俺たちは水族館内へ入っていく。
入り口を通ると、そこから先は程よい暗さで演出されていて、水槽の中を大小様々に数多の魚たちが泳いでいた。
「……綺麗ですね……あーくん」
俺へくっ付くようにして傍にいる寧子さんが、水槽の中を見つめてさっそく感動したように呟く。
彼女を見て、俺は思わず小さく笑んでしまいながら頷いた。
気付けば、なぜかすぐ傍にあったはずの郁子さんの影が無い。
今だ。
俺は寧子さんに声を掛けた。
「……寧子さん」
「……? どうかしましたか、あーくん?」
小首を傾げる寧子さん。
俺は、そんな彼女の首元に付いている首輪を触りながら問いかけた。
「首、これ付いてますけど、苦しくないですか? 大丈夫?」
「あっ……。は、はい。大丈夫……です」
水族館内の暗い演出のせいで、顔色は明確にわからない。
でも、少しうつむきながら口元を緩ませている彼女は、どことなく恥ずかしがりながら、俺が触れるのを喜んでくれてるように見えた。
『……好きです……寧子さん』
昨日の夜、都子さんがいなくなってからの二人きりの部屋。
そこで言った自分のセリフを、こんな時に思い出してしまった。
顔が熱くなっていくのがわかる。
水族館の演出があってくれて良かったのかもしれない。
「あ、あの……あーくん?」
「は、はい……何でしょう……?」
「今日……私……このデートが終わったら……あーくんに伝えたいことがあります」
「え……」
伝えたいこと。
その言葉を聞いて、俺の心臓は強く跳ねる。
「これは……そ、その……あーくんから頂いたお礼の言葉でもあって……」
「……は、はい」
「私の伝えたい……真剣な想いでもあるから……」
瞬きすることすらも忘れる。
言葉の通り、真剣に俺へ何かを伝えようとしてくれている寧子さんの瞳には、縋るような想いが色となって表れていて。
俺は、そんな彼女をジッと見つめ返し続けていた。
「……実は……俺にもあります。伝えたいこと」
「あーくんにも……ですか?」
「はい。俺も……お礼のようなことで」
それから、大切な気持ちについて。
「このデートの終わりに」
●○●○●○●
君と出会ったのは、梅雨の日のコインランドリーで。
君は、洗濯物が乾くのを、すごく寂しそうに、悲しそうにして一人で待っていた。
大学生だろうな、ということは直感的になんとなくわかった。
この辺は大学も近いし、何より一人暮らしをしている学生が多い。
俺もそのうちの一人だし、面識のない彼女のことを、なぜかその時は放って置けない気持ちになった。
話し掛けてみると、君はまず驚いて、挙動不審ながら俺の問いかけに対して、色々と答えてくれる。
大学一年生。
俺も同じ。
一人暮らしをしている。
俺も同じ。
実家を出て、独りぼっち。
俺も同じ。
友達がいなくて、寂しい。
俺も同じだ。
会話を続けていると、次第に彼女は笑顔を見せてくれるようになった。
帽子と、前髪と、マスクのせいで顔はハッキリと見えないけれど、それでも笑顔なのはわかる。
嬉しかった。
沈んでいた彼女が、どことなく浮かばれたような気がして。
『もしさ、独りぼっちで寂しくなったら、人文学部に来てみてよ』
『へ……?』
『人文学部棟のどこかの教室を見て、前の方で悲しくボッチしてる人間がいたら、高確率でそれは俺だから』
『……人文学部棟……』
『大丈夫だよ。同じボッチの俺を見てたら、きっと元気が出てくるはず。俺も頑張るからさ、一緒に頑張ろう?』
『……』
『一人じゃないからね、安心して?』
大学一年、梅雨時のランドリー。
俺はこの日あったことを、きっと生涯忘れないだろうな、と。
そう思った。
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