第11話 寧子さん

 保野さんと歩く2キロは、不思議ととても短く感じた。


 自分の趣味、好きなもの、今まで自分が育ってきた地元のこと、大学生になって感じたこと。


 保野さんから色々質問されたし、俺もそれに応えつつ質問する。


 沈黙がないくらいに俺たちは歩きながら語り合い、夕焼けの鮮やかなオレンジは、気付けば黒くなりかけていた。


夜ももう目前。


 時計を見れば、時刻は18時近く。


 2キロを、ゆっくり、ゆっくり、噛み締めるように歩いた。


 そして――


「ここです、あーくん。ここが私の住んでるマンション」


 辿り着いた保野さんのおうちは、よく整備されていて小綺麗なマンションだった。


 規模としては小さいものの、家賃はそこそこかかってそう。


 思わず、「おぉ」と感嘆の声が漏れてしまう。


「家賃はだいたい5万円ほどです。確かによく整備されていて小綺麗なマンションですが、そこまでお金はかかっていないんですよ?」


「待ってください。一言一句俺の心の声を正確に当てたうえで答えないで。エスパーか何かですかあなたは」


「エスパーではないですよ。あーくんの口の動き、仕草、そして事細かな目と眉の動きに表情。それらをすべて観察していたら簡単です」


「全然簡単そうじゃないし、それができてしまう保野さんはたぶんメンタリストか何かになった方がいいと思う」


「メンタリストなんて嫌ですよ。誰彼のことを観察する気は起こりません。あーくんのことになら全力を尽くせるのが私なんです」


「……あ、あぁ……ソウナンデスネ……」


「そうなんですっ。ちなみに、今考えていることもわかります。『あー、早く部屋に入って鍵閉めて寧子に●●●や●●●●してやりてー……』ですよね?」


「はい。ハズレ。ぶぶー。大不正解です」


「そ、そんなぁ……! じゃあ、『寧子の●●●●にむしゃぶりついて、●●●●しまくりてー……』ですか……!?」


「大大大不正解です。いいから早く部屋に入りましょう。衣服とか取って俺の家まで帰りますよ」


「あ、わかりました……! そういえばそうでした……! あーくんは自分のおうちじゃなきゃ集中して●●●●できないお方……! 私としたことがてっきりそれを――」


「そ、そんなセリフ……! 寧子さんほんといい加減にして……!? 誰かが聞いてたらどうするん――」


 と、言いかけてハッとする。


 自分の口を手で塞ぎ、俺は真横にいる彼女へ慌てて背を向けた。


「……あーくん……今……」


「っ……っ~……!」


 つい釣られてしまった。


 保野さんのことを下の名前で呼んでしまった。


「……………………」


「…………うぅぅ……」


 真っ先に騒ぎ立ててくるかと思ったけど、彼女は何も言ってこない。


 これは……完全な事故だ。


 かつてないくらいの……事故。


「…………あーくん」


「……は、はい……何でございましょう……?」


 つい変な敬語を使ってしまう。


 すっかり冷静さを失ってしまっていた。


 そんな自分に対し、さらなる恥ずかしさを覚えるのだが、


「――!」


 保野さんがそっと俺の右腕を抱いてきた。


 歩いてる最中はやめようって言って、なんとか了承してもらってた。


 でも、それを彼女は我慢できないみたいにして破る。


 いや、破ってはいないか。


 俺たちは今、歩いてるわけじゃない。


 マンションの前に二人で立ち尽くしてる。


 二人で。一緒に。


「……ほ……保野さん……」


「んん…………その呼び方じゃないです……」


「っ……」


 弱々しく、駄々をこねるように体を横に揺らす彼女。


 その仕草にいつもの保野さんとは違うギャップを感じる。


 俺は、素直に可愛いと思ってしまっていた。


「……さっきみたいに……呼んで? 私のこと……『寧子』って……」


「っ……!」


「……お願い……です……」


 きゅぅ、と腕を抱く力が少し強まる。


 目は合わせてくれなかった。


 今までこんなことは無かった。


 いつも妖しい光を浮かべ、獲物を狙うようにして俺を見つめてくるのに。


 ……寧子……。


「………………さん」


「……?」


 心の中で一度彼女の下の名前を呟く。


 けど、呼び捨てなんてまだ無理だ。


 俺は力を振り絞り、恥ずかしさを振り払いながら彼女の名前を口にした。


「寧子…………さん。……寧子さん……」


「ひゃぅっ……!?」


 息を呑むような声と共に、保野さ……じゃなく、寧子さんは体をビクつかせる。


 その反応のせいで、俺は頭の上から湯気を出してるんじゃないか、と思うほど顔を熱くさせてしまった。


 焦って変な弁解を始めてしまう。


「い、今はまだ……そ、そのっ、呼び捨てなんて無理というか……こ、これが俺の精一杯というか……」


「は、はいっ……い、いえっ……そんな……私は……それだけでも……」


「うぅぅ……」


「っっっ~……」


 死ぬ。


 死んでしまう。


 呼吸が苦しい。


 体が熱い。


 俺は……俺はっ……。


「……あー……くん……」


「……な、何でしょう? ね、寧子……さん……」


「……わ……私…………っ~……」


「………………?」


 続く言葉が無い。


 ただ、彼女が悶えてるのはわかった。


 先の言葉が気になるけど、寧子さんの顔を見たりなんて、今はできなかった。


 ただ、真っ暗になっている地面を見つめるだけだ。


「………………」


「………………」


「…………………………」


「…………………………」


「……………………………………」


「……………………………………っ」


 さすがに、だろうか。


 彼女の顔を見つめないまま、俺は沈黙を切り裂く。


「……寧子……さん?」


「…………はい」


「……と、とりあえず……部屋の中……入りますか? こんなところで突っ立ってるのも何ですし……」


「………………はい」


 途切れ途切れの短い会話を交わし、俺たちは密着し合ったままゆっくりと歩きだす。


 さっきまであんなに饒舌にやり取りしていたのに、こんなことになってしまうなんて。


 心臓はバクバクと激しく動き、その勢いをまるで抑えようとはしてくれない。


 小さなエレベーターに乗り、3階まで上がる。


 そして、並んでいる部屋の3番目で寧子さんは足を止めた。


「…………ここ……です……私の……お部屋」


「……は、はい……」


 言って、彼女は部屋の鍵を開け、玄関扉も開けた。


「…………一緒に……入りましょう…………あーくん」


 上がっている体温のまま、俺は生唾を飲み込んで頷く。


「……お邪魔……します……」


 寧子さんは、俺が入ったのを確認してから自分も入り、扉の鍵をさりげなく閉めるのだった。

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