第10話 大切な人以上に、深く深く。
みっちりと大学の授業を一日通して受け、時刻は夕方の17時。
ぼっちの俺は、授業の終わった教室内で、一人教科書やノートの後片付けをしている。
これらをリュックに詰めたら、キャンパス内にある大時計の前に集合だ。
一緒に彼女の家へ行き、服や必要なものを取りに行く。
保野さんも4限まで授業あるって言ってたからな。
俺の講義は早めに終わったし、きっと彼女よりも先に俺が待つことになるだろう。
間違っても、今この時間に保野さんが俺の教室内に侵入し、後ろの方で見ている、なんてことは起こるはずがない。
うん。絶対。絶対にね。
「うぇへへへ……♡ じーっ……♡」
「………………」
「はぁはぁ……♡ じぃぃぃ〜っ……♡」
「……………………」
「あーくん……♡ あーくんあーくんあーくん……♡ はぁはぁはぁ……♡」
教室後方の出入り口。
そこに隠れ、保野さんは俺のことを見つめていた。
帰ろうとして、出入り口を通ろうとする人たちは、「ひぃっ」と悲鳴を上げている。
彼女の発する病みのオーラが凄まじい。
狂気的に、ねっとりとして歪んだ情愛を帯びた瞳で、瞬きすることなく俺を見つめていた。
こっちもこっちで寒気がする。
肌がゾワゾワするのはきっと気のせいじゃない。
ほんと、なんでこの時間帯に人文学部棟にいるんだ。
あれだけ授業はちゃんと受けてくださいって言ったのに……。
「はぁ……」
ため息をつき、教科書類をリュックに詰めた俺は、それを背負って保野さんの元へ歩く。
今気付かれた、と思い込んでるらしい彼女は、ハッとして扉の向こうに隠れた。
今さら遅いうえに、隠れきれてない。
綺麗な黒髪がちゃんと見えてますよ。まったく。
「保野さん」
「あっ……! ひゃ、ひゃい! お帰りなさいませ、ご主人しゃま!」
「っ……ちょ、ちょっとその呼び方やめてください。俺、朝その呼び方他の人に聞かれてて、噂立てられたんですから」
「では……あるじ様……」
「何も変わってないですよ。何も。ちゃんと呼んでください。お願いですから」
「……あなた……♡」
「っ〜……」
頭を掻く。
もうツッコんでも埒が明かなさそう。
この話題は置いておくことにした。
「もうなんでもいいです」、とスルーし、
「保野さん。お聞きしますけど、どうして4限目の授業の最中のはずなのに人文学部棟にいらっしゃるんですか? 栄養学部の授業は?」
「休んじゃいました……♡ はぁはぁ……♡」
「……(汗)」
もうダメだこの子。
どうやら留年するつもりらしい。
きっと親御さんは涙目だろう。冴えない男をストーキングしたために単位数が足らなかった、と知ったら。
「はぁ…………保野さん。いいですか? 落ち着いてよく聞いてください。ステイ、です」
「わんっ♡ ……じゃなくて、ひゃ、ひゃい♡」
いつからあなたは犬になったんですか……。
もう……。
「このままだと、保野さんは2年生に進級できません。授業にはちゃんと出てくださいって、俺あれほど言いましたよね? あと、普通に会話してるのに息を荒らげないで」
「ご、ごめんなさい……あーくんのことを2時間ほど見つめていなかった反動が今きてて……興奮が抑えきれなくてぇ……♡」
「……よだれ、出てますよ? はいこれ。ちゃんと拭ってください」
「んひやぁ!? こここ、こりは、あああ、あーくんのハンカチ……!!! い、いいんですか……!? こんな一品を堂々とお渡しになられて……!」
「俺のハンカチを超高級料理みたいに言わないでください。ただのハンカチですから……」
言うと、保野さんは、そーっと大切そうにしながら俺のハンカチで口元を拭った。
拭った瞬間に体をビクビクさせ、とろんとした瞳でよろよろと壁にもたれかかる。
「と、とれ……びぁん……」
「あなたは東京●種の月山さんですか」
そして、訳のわからないことを口走っていた。
もうダメだ。
端から端までツッコみどころが多くて、話が前に進んでいかない。
とりあえず、俺は彼女の身を案じつつ、ここにいたらまた変な噂を立てられかねないと思い、勇気を出して保野さんの手を握った。
「っっっ!?!?」
彼女は困惑しながら、言葉になっていない声であたふたしている。
俺は俺で、自分も恥ずかしくなりつつ、保野さんの手を握って前に歩き出した。
「は、早く行きますよ、もう。今からあなたの家に行かなきゃいけないんですし、ここにいたら保野さんの奇行でさらに噂を立てられかねない。そういうの陰な俺にはきついんです」
「わ、私……今日……幸せすぎて死んじゃうかもです……」
「死ななくていいですから。まったく……」
そう言いながら、俺は自分の顔が熱くなってるのを実感していた。
保野さんの手は、華奢なのに柔らかくて、そのうえ温かい。
ストーカーで病みに病んでる女の子なのに、俺は心の奥底で認めたくない感情に苛まれていた。
こうして、保野さんの手をずっと握っていたいな、なんて。
●○●○●○●
一応、繋いでいた手は、人文学部棟を出たところで離した。
いつまでも繋いでいると、それはもはや恋人でしかないし、今度は自分が正気でいられる気がしない。
保野さんは名残惜しそうにしていたけれど、俺は顔を逸らして「また繋げる時に繋ぎましょう」と提案。
彼女は妖しい瞳のままにこりと微笑み、了承してくれた。
そうして、二人並んで歩く。
保野さんの家までは、おおよそここから2キロほど。
多少距離はあるが、向かえない距離じゃない。
若干、楽しみだった。
女の子の部屋に入るなんてこと、人生で一度もなかったから。
「それで、保野さん?」
「はい。何でしょう、あーくん?」
「今日の授業はどんな内容だった? 栄養学部のこととか、俺全然知らないんだけど」
問うと、彼女は宙を見上げて、うーん、と少し思い出すような仕草をし、
「主に食品に関する添加物の授業を受けました。それに関する法律の話や出来事、歴史など」
「おぉ……。結構本格的」
「です。授業自体はとても興味深いですよ。あーくんのことを見つめていられないのは苦痛ですが」
「う、うん。まあ、興味深いのならよかった」
俺に関してのことは今スルーさせてもらう。
そこに触れれば止まらなさそうなので。
「でも、保野さんはどうして栄養学部に? 俺はーー」
「小説や漫画、アニメなどが好きで、そういった創作の授業が受けられるからこの大学、この学部を選んだ。特に佐伯教授の授業が好きで、彼の講義は最前列で受けているんですよね、あーくん♡」
「……どうしてそこまで詳しく知って……?」
「四六時中見つめていましたから」
俺の腕を抱きしめ、サラッと恐ろしいことを言う保野さん。
俺はもう、頬をひきつらせて苦笑いを浮かべるしかなかった。
彼女は続ける。
「話を戻しますね? 私が栄養学部に入ったのは、亡くなったお父さんの影響を受けたからなんです」
「……そうなんだ」
「はい。お父さんは、私が小学2年生の時に交通事故で亡くなりました。とても優れた管理栄養士で、加えてお料理も上手で、本当に尊敬していたんです」
「そっか。それで保野さんも……」
「はい。少しでもお父さんに近付ければいいな、と思いまして。将来は管理栄養士になろうと考え、この学校に入ったんです」
「……じゃあ、なおさら俺のことなんて追ってる場合じゃ……」
「いえ。それとこれとは別です」
「な、なぜ……?」
キッパリと即答された。
お父さん、泣いてると思うんですが……。
「あーくんは……お父さんと同じくらい……いえ、お父さん以上に大切な人になってしまいました。だから、全身全霊、全力でお尽くしし、愛したいと思っています……♡」
「っ……」
「あーくん……♡」
「は、はい……」
「絶対に……絶対にお離ししませんからね……♡」
大好き。
そう言って、彼女は俺の腕を強く抱きしめ直すのだった。
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