過剰カフェオレ

 少し目を細めて、両目の焦点位置に集中する。両手で開いた本を持ち上げ、視線の先の人物に気づかれないように注意する。


 視線の先の人物は、左手だけで器用に開いた本を支えている。その手首をテーブルの端に載せ、持っている本の表紙がこちら側に向いていた。

 銀縁眼鏡の奥から左側に視線を落としたまま、右手がテーブルの上のティーカップに伸びた。視線を動かさないまま器用にティーカップのハンドルまで手を伸ばすと、人差し指、中指、親指でつまむようにして持ち上げる。

 ティーカップをゆっくり口元へ運ぶ動きは、無駄がなく洗練されているように感じた。


 青年の美しい所作に見とれてしまいそうになるが、今はそれより目を凝らすべき場所がある。普段はブックカバーに隠されている彼の本だが、今日は表紙がこちらを向いているのだ。

 タイトル文字を読みとることは出来そうにないが、えんじ色をベースに白い枠が描かれているのが見える。白い枠内には、緑色で針葉樹のようなシルエットが描かれていた。


 今までは本のサイズから、文庫本であろうことしかわからなかった。だが、もう少し彼のことを知ることが出来そうだ。

 雰囲気からして小説だろうか。ライトノベル的なイラストではないような気がするし、自己啓発本のような、胡散臭い成人男性の顔が大きく載っかっているようでもない。暗い感じもしないので、ホラーやミステリーの雰囲気とも違うようだと感じる。


 ふと思いつき、手に持った本を閉じてテーブルに置いた。無造作に置かれた本は、その表紙を天に向けて自らのタイトルを主張する。


『キャパオーバー 満腹の流儀』


 家の本棚から適当に持ってきただけで、内容は全く把握していない。タイトルから察するにグルメ漫画みたいな話だろうか、中身はなんでもいいのだが。ページ数が多すぎず、長時間の目線隠しにぴったりで重宝しているのだ。この放課後の必需アイテムである。


 自由になった右手を、制服の胸ポケットへ移動させる。胸ポケットにしまったスマートフォンを取り出すと、左手に持ち替えてロックを解除した。

 検索エンジンに文字を打ち込んでいく。


『小説 人気 文庫本』と入力し、検索ボタンをタップした。検索結果が表示される。検索結果を画像に切り替えて、向かいの席に見える本と類似するものがないか注意深く捜索を開始した。


 なんとなく雰囲気の似た画像をタップする。拡大表示された本のタイトルは『本の上から見る世界』と書かれている。色味は捜索対象と似ているが、表紙を見ると、積み上げられた本の写真と、その上に立つ人物のイラストがあった。おそらくお目当てのものではないようだ。

 検索結果一覧ページに戻り、指を下から上に滑らせる。画面に表示された画像が指に合わせて下から上へと流れていった。


 再び似たような雰囲気の画像を発見し、タップした。表紙に『白紙の束』と書かれている。

 その題名から、真っ白なページだけの本を想像した。本なのに何も書いていないということだったりするのだろうか。本というのは読まれるために存在するのに、その本領を発揮できないとは。なんてかわいそうな作品だ。


「結構本格的なのを読むんだね。これって面白い?」


 突然の声に驚き、体を硬直させる。自分に対して質問が投げかけられたと理解し、首を右にひねる。

 右手だけテーブルに乗せ、体を自分の方に向けた男子高校生と目が合う。視線が重なったことになんとなく焦りを感じ、すぐに目をそらした。

 質問された内容を思い出し、眉間に力が入る。面白いかどうか、と尋ねられても、内容どころかあらすじすら読んでいないのである。

 とはいえ、このまま無視するわけにも行かず、目線はそらしたまま適当に頷いた。


「そっか、じゃあ俺も買ってみようかな」


 これはまずい。自分の適当なあいづちのせいで、彼の財布から質量が失われることになりかねない。同じ高校生として、お小遣い事情には気を使うのだ。


 なんとか隣の彼の購買行動を阻止しなければならない。とはいえ今さら、本当は読んでいないと伝えるのもなんだか難しい。同世代の男子に話しかけるなんて、自分には高すぎる壁なのだ。


 ふと、一つの解決策が頭に浮かんだ。とはいえどうやって伝えようか。この壁を超えるだけの跳躍力を手に入れるには……。

 テーブルの上のマグカップを両手で持ち上げた。まだ半分ほど残った中身を一気に流し込む。突然流し込まれた液体が胃袋の中で波打つのを感じる。


 マグカップをテーブルに戻し、その勢いのままテーブルに放置された本を手に取った。

 少し体を右に向け、隣に座る人物へ視線を向ける。しかし顔を直視するわけにはいかず、ボタンを外したブレザーから覗く、ワイシャツの胸ポケットを見る。

 すばやく手に持った本を隣のテーブルへ移動させ、逃げるように姿勢を戻した。


「これ、借りていいってこと……でいいのかな」


 隣からの問いかけに、自分のテーブルを見ながらコクコクとうなずいて応えた。


「あ、ありがとう。早めに返すよ」


 彼からの感謝を受け取り、深く息を吐いた。万事解決である。


 さて、自分の顔を隠す盾を失ってしまったため、応急措置を実施することにする。

 足元の黄色いリュックのジッパーを開き、適当な本を探す。『現代文B』と書かれた本を掴み、リュックから取り出した。


 とりあえずこれと決め、直近の授業で使用したページを開き、顔の前で本を支える。

 支えた本の上から向かいのテーブルを覗くと、変わらず読書を続ける青年が目に入った。その本、私に貸しに来てくれたりしないだろうか。


「本のお礼。カフェオレでいいよね」


 右耳に声が届くと同時に、テーブルの上にマグカップが設置された。白い湯気が立ち上り、コーヒーとミルクの香りが届く。

 胃袋を圧迫する波を再認識し、思わずマグカップを睨みつけた。

 さすがにキャパオーバーである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後奢られカフェタイム 犬丼 犬至 @kendonkenji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る