コーヒーフレッシュとBe動詞
両手で開いた本の上から視線を覗かせる。
視線の先には向かいのテーブル席。銀縁の眼鏡が小さく輝いて見えた。綺麗な形に着られた学ランのシルエットは、持ち主が長身であることを思わせる。
彼のテーブルに置かれたティーカップからは白い湯気が薄く立ち上っている。その隣には二冊の本が広げられていた。左手で片方の本を押さえながら、もう一方の手に握られたペンが他方の本へ何かを書き込んでいる。
私は勉学の神から見放されている。嫌われているのだから仕方ない。私は私を嫌う相手のために努力している暇などないのだ。やればできる子の才能は、私に恋する神のために使うことにしている。決してサボっているわけでは無い。
一方、視線の先ではすらすらと迷いなく走るペンの動きが見える。きっと勉学の神が降臨しているのだ。心なしか後光が差しているような気さえする。市内の最高学府と呼べる高校の制服も、その輝きを増幅させている。
「お待たせしましたー。カフェオレ、ミディアムサイズですー」
はつらつとした声と共に、私のテーブルにマグカップが届いた。本を少し下げ軽く会釈を返し、声の主が立ち去るのを眺めた。
本を閉じ、恐る恐るマグカップに触れてみる。
指に伝わるチクっとした熱を感じ、とっさに手を離した。私の舌が出来立てに耐えられないことは周知の事実である。にも関わらず触れてみたくなるのはなぜであろうか。なんにせよこの陶器と分かり合うには時間が必要になりそうだ。
テーブルの下に置いた黄色いリュックに触れる。ジッパーをスライドさせ、閉じた本を差し込んだ。代わりに一冊の本を取り出すことにする。
本を開くとアルファベットの羅列が目に入った。勉学の神になびくつもりはないが、マグカップと仲直りするにはちょうどいい。目線を上げ、向かいのテーブルへ目を向ける。
――私が回答を書き込むと、向かいの席から声がする。
「そこ、間違ってるよ。答えはこっち」
学ランの右手から伸びる長い指、そこに絡まるペンが私のノートにくるくるとまるを付ける。
ちらっと目線をあげると、眼鏡の奥でやわらかく微笑む瞳がこちらに向いている。私は小さくうなずき、消しゴムを誤答の上で往復させる。
「基本のおさらいをしようか。この文法は――」
脳内で、私史上最高傑作映画の第一部が幕を閉じる。自然と口角が上がっていることに気づき、表情を落ち着かせた。
マグカップを持ち上げると、予想を下回る質量のせいで勢いよく上昇する。映画館でのポップコーンとドリンクは、いつも気が付けば空になっている。満腹中枢を麻痺させる暴食の悪魔が住み着いているに違いない。
「そこは、“am”が答えだよ」
突然、私の右耳に予想外の音が届く。ビクっと肩を震わせながら、目だけを右に向ける。ボタンを外した黒いブレザーがこちらを見ている。
少し全身が硬直したのち、思い出したように何度か小さく頷いた。テーブルの上に目線を戻すと、開いた時から何も変化していない英語の問題集が目に入った。
持ち上げたまま行き先を失ったマグカップをテーブルに戻し、ペンをとる。一問目の空欄に“am”と書き込んで、次の問題文へペン先を移動させた。
「“be going to”がこの構文の形だから、主語に合わせてBe動詞を変える感じ」
右隣からの追撃を受け、視線は問題集に落としたままコクリとうなずいた。
しばらく間をおいてから
「あー、ごめん。余計だったかな」
少し力を失った声でつぶやくような声が聞こえた。
反応に困り、気まずさだけが増していく。居心地の悪さを右半身に感じながら息を深く吐いた。
映画鑑賞の感想会を開く前に、思わぬ妨害が入ったことに対する不満が募ってきた。この時間のため、長く苦しい神の試練に一日耐えてきたのだ。私を嫌う神との争いに勝利し、やっと手に入れた今。この空間に侵入する無法者、大変遺憾である。
とはいえまだ試合時間は終わっていない。もう一度映画館を建設することにしよう。今日は第二部まで一気見する贅沢な日にするのだ。
次の上映会を始めるため目線を向かいの席へ向けた時、こつんとテーブル端から音がする。
「まだ長そうだから、必要かなって。あと、ブラックは苦手そうだからこれも」
声のする方を向くと、白い湯気の立ち上るコーヒーがテーブルに届けられていた。受け皿にはコーヒーフレッシュが添えられている。
確かに映画鑑賞にはドリンクが必要だ。その気遣いは評価に値する。とはいえ、これで先ほどの無礼をチャラに出来るわけでは無い。それでも減刑くらいは考えてやろうかな。
などと考えながらコーヒーフレッシュを注ぎ込み、スプーンで拡散させた。ティーカップを持ち上げ息を吹きかけると熱風が反射する。まだまだ仲良くできないことを察しながらも、少しだけ口に含んだ。舌の先が痛みを感じ、顔をしかめる。やっぱりミルクの方が好みだ。
もう一度ペンを持ち、次の回答欄に“am”と書き込んだ。
「そこは“are”だね。主語が“You”だから。“You are going to buy me a coffee.”」
私は小さくうなずき、消しゴムを誤答の上で往復させた。
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