放課後奢られカフェタイム
犬丼 犬至
ブラックコーヒー
開いていた本を閉じ、テーブルの上に置く。なんとなく気恥ずかしさを感じて顔を伏せ、テーブルの上のマグカップに左手を伸ばす。恐る恐る触れると、程よい暖かさを感じる。少し安心し両手でマグカップを持ち上げるとカフェオレを一口飲んだ。甘さは控えめでミルクは多め。私の好きなバランスである。
マグカップを顔の前に置いたまま、二人用の小さなテーブルから目線を上げる。向かいの席に友人でもいればその顔が大きく目に入るだろうが、その視線の先の人物はもっと小さく頭の先からつま先まで視野に収まった。自分の占有するテーブルからさらに奥には二人分の人間が通れるくらいのスペースがあり、その奥に向かいのテーブルがある。
視線の先の人物が少し顔を上げる。とっさに左を向いて目をそらした。目をそらした先はガラス張りの壁に向かってカウンター席が設置されている。透過された壁の向こうには制服を来た学生がちらほら歩いている。マグカップをテーブルに戻し、もう一度本を開く。さっきまで開いていたページは思い出せない。適当なページを開くことにし、顔を隠すように持つ。
本の上から目を覗かせ、もう一度向かいの席を見る。眼鏡をかけた男性が読書をしている。本はブックカバーに包まれ、印刷されたロゴには同じ商業ビル内の書店ロゴが見える。テーブルの上には取手のついたティーカップが皿の上に置かれている。湯気がうっすら立ち上り、その中身は紅茶なのかコーヒーなのか判別できなさそうだ。彼の身に着ける学ランから、この辺りでは最も偏差値の高い高校の生徒であることがわかる。
どんな本を読んでいるんだろうか。いろいろと想像してみるが、自分の知っている小説家など芥川龍之介と宮沢賢治くらいだ。内容は想像できないが真剣な目で活字を追う姿から妙に目が離せない。まるで彼だけ空間から浮かび上がっているような気さえする。きっと私には想像できないような高尚な本を読んでいるに違いない。そしてティーカップの中はオシャレな名前の紅茶とかなのだろう。・・・私はダージリンくらいしか聞いたことがないが。
「いらっしゃいませ―。お好きな席へどうぞー」
元気な女性の声が聞こえた。右隣の席に人の気配が近づいて来る。ごそごそと音がし、隣の椅子に座る人影が視線の端に入った。
「いつもここに居るよね」
突然の声に肩をピクリと震わす。怪しさを感じつつ、顔を本に隠したまま少しだけ右に向ける。黒いブレザーの下から首元の第一ボタンが開いた白いワイシャツの男子がこちらに目線を向けている。ブレザー左胸の校章から近くの高校の制服だとわかる。丸いシルエットの髪型だが、ところどころくるりと束になってセットされていることがわかる。
見知らぬ男子に声をかけられる、という人生初の体験に、怪しさと少しの恐怖を感じ、無言のまま顔をそらした。
無言はまずかっただろうか、あいづちでもすればマシだったかもしれない、とすぐに後悔が募って来た。気まずさを紛らわすためマグカップを手に取りゴクゴクと勢いよく飲んだ。
「あー・・・、突然びっくりしたよね。ごめんごめん」
右隣から徐々に消え入りそうになっていく声で謝罪が聞こえた。その言葉にも反応できず居心地の悪さが増す。私の優雅な妄想時間を返して欲しいものだ。おもむろにポケットからスマホとイヤホンを取り出した。適当な音楽を再生し、もう一度元の世界へ戻る作戦だ。
再び本を開き、向かいの席へと視線を戻す。ティーカップの近くに半分だけ中身を失ったスティックシュガーが見えた。ほどよい甘さが好みなのか、覚えておこう。いつか私が紅茶を淹れる時には、砂糖を半分こすればちょうどいいだろうか。私は甘いのよりミルクが好きだが。そもそも紅茶って砂糖をいれるんだろうか。やっぱりコーヒーかもしれない。だったらこだわりの豆を調べておかないと。
ティーカップを凝視したまま思慮にふけっていると、店員さんが声をかけてきた。イヤホンのせいで何を言っているかよくわからないが、先ほどの反省を生かし適当にウンウンとあいづちをうった。それを見て店員は左手のトレイから水の入ったグラスをテーブルに置き、テーブルのマグカップを取り去って帰っていく。
しまった。私は何も注文せず、水だけで席を占拠する人間に変化したのだ。帰りの電車はまだ半時間も先まで待たなければならないというのに。もう一度注文しようか。しかし、高校一年生のお小遣い事情は厳しいのだ。
視線を軽く右に向け、ばれないように睨みつける。そもそも、突然声をかけられたりしなければ、私のカフェオレはもう少し長生きした。イヤホンのせいで、店員とのコミュニケーションエラーも発生しなかったはずなのに。
・・・仕方ない。今日は諦めて帰ろう。
イヤホンを取り外し、ポケットにしまった。本をカバンに片づけようと手を伸ばしたところ。
「これはさっきのお詫びってことで」
テーブルの右隣から黒い液体の入ったティーカップが出現する。白い湯気が立ち上り、コーヒーの香りが広がった。驚きで体が固まる。硬直したまま頭だけ右へ向けると、申し訳なさそうな表情で小さく「どうぞ」とつぶやかれた。
先ほどの反省を生かして小さく会釈を返し、ティーカップを引き寄せた。
私はブラックが苦手だ。まったくこいつはわかっていない。今から三十分を、この苦みと共に過ごす気持ちを考えて欲しいものだ。しかし、残すのはもったいないのでいただくことにする。別に妄想を続けたいから受け取るわけでは無い。あくまでもったいないからである。
テーブルに備えつけのシロップを二つ手に取り、黒い液体に流し込んだ。フーフーと息を吹きかけてからコーヒーを口に含む。やはりミルクが欲しい。
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