第五章 打算に吸い込まれる

 晩夏、天気は曇天。教え子の死によってざわついていた雨の町もいつもの静寂に戻った頃、男は〈キネマレヴリ〉に向かう大通りを歩いていた。

 幼馴染の死によって傷ついただろう糸雨を慰め、学校へ連れていくために、男は浮足立っている。

「糸雨はずっと嫌われ者だったから、救ってやれば、あいつはオレを好いてくれるに違いない。大体、あいつは生意気だったからなァ。多少静かになっているだろうから懐柔するには丁度良い」

 男は、雨の町の人々に慕われている。じめじめとした雨の町の性質上、そこに生まれた人もネガティブな思考を持つ者が多くなるが、男は違った。それは、恵まれた体格に生まれ、幼い頃から頼られて育ったからこそ身についたムードメーカーの素質だった。

 ただし、必ずしも全員が男を支持するわけではない。それは、頼られるのが当たり前だった男にとって危惧すべきことで、支持を得るためならどんなことでもやった。

 幸い、勉学の才があった男は、教師になり、それからたくさんの教え子たちからの支持を得る。しかし、そこで満足することはなく、子どもたちの好きなもの、喜ぶもの、苦手なもの全てを把握し、理想の教師像に近付けた。

 そんなとき、糸雨と霖が入学した。

 雨の町である意味有名な糸雨と霖に慕われれば、自分の知名度も上がるだろうと夢見た男は、本人に会い、衝撃を受けた。

 糸雨も霖も一度だって男を頼らなかったからだ。

 それが、男には悔しかった。

 糸雨よりも懐に入れそうだと思った霖に近づくと、自然と糸雨もおびき出せた。ゆっくりでも良いから卒業までには従わせようと思っていたところで霖が死んだ。男は、大事な生徒が亡くなったことに涙した。しかし、それは単純な悲しみではなく、周りへの体裁と自分の計画が狂ったことへの怒りだった。ただし、この出来事が思わぬ形で男に力を貸した。

 糸雨はさぞ霖が死んだことを悲しんでいるだろう。ならば、予定より早く糸雨を手懐けられる。

 頬の緩みを抑えられない。

〈キネマレヴリ〉の前に到着すると、男は冷や汗を流した。

 雨の町で生まれ育ったが、実際に〈キネマレヴリ〉に来たのは初めてだった。

 雨脚は、〈キネマレヴリ〉に着いた時点で大雨へと変わった。

 大通りのどの店も閉まっていて、〈キネマレヴリ〉も含めて寂れているというのに、男には〈キネマレヴリ〉だけがどこか恐ろしく感じた。

 しかし、これは糸雨のためだ(という建前)。

 糸雨を学校へ連れて行かなければならない。自分は、教え子を心配しているのだ。

「オレは良い教師だなァ。こんなところまで生徒を迎えに来るなんて」

 先程までの歓喜の笑みは、引きっている。

 意を決して中へ入ると、そこだけ時代が止まったかのようなかつての栄光を纏う映画館だった。

「なんだ、何もないじゃないか」

 呟いて、異変に気づいた。何もない、とは。糸雨がいるはずなのに。

 不気味な雰囲気を感じるが、人の気配がない。

 息を呑んで、男は前に進んだ。

 何もないのなら前に進む必要はない。もしかしたら、自宅にいるのかもしれない。それでも、そうしなきゃいけない気がした。

 しばらく、〈キネマレヴリ〉の中を脈絡もなく歩いていると、一つの部屋の前に辿り着いた。

 ノックもせずに部屋に入ると、そこは作業部屋のような場所だった。

 薄暗くてよく見えない部屋の中の奥へ進むと、机と椅子があり、そして、死体がいた。

 男は、ヒッ、と驚き、あと退ずさる。

 死体は椅子に座り、機材が置いてある机に伏せ、穏やかに眠っていた。

「……糸雨」

 男はすぐにわかった。

 白骨化しかけたそれは、男が知っている糸雨よりも痩せこけ、最早人の姿を保っておらず、けれど、わかってしまった。

 糸雨は、薬指に指輪をはめて、小瓶を大事そうに抱えている。小瓶には一本の骨が入っていて、それも指輪をはめている。

 男は、身体を震わせた。

 狂気的なこの場所にいることに恐怖を覚えた。

 部屋には他に、糸雨を取り囲むように糸雨と霖が映った写真とネガフィルムが散乱していて、余計にこの場所の異常さを物語っている。

 糸雨と霖の共依存は、男も十分に知っていた。それでも、

「……お前は、本当に狂った男だな」

 女一人に執着するなんて。

 糸雨は冷淡な人物だと、男は思っていた。雨の町の一切に興味を示さず、自分のやりたいことだけに目を向ける。ただし、霖には別人のようだった。そして、男は糸雨にとって興味を示さない対象だった。最初は。

 糸雨は、怒りを男に向けた。

 糸雨は人を見る目がある。初めて会ったとき、男はそう確信した。

 だって、糸雨が怒りを向ける対象は、大抵が社会的に最低な人物だったのだから。

 男は、自分が非道であることをわかっていた。

 そして、それを見破った糸雨に興味が湧いた。

「愛に狂い、愛に死ぬなんて。なんて情熱的な男なんだろうなァ。お前のことはオレが語り継いでやろう。生徒思いの担任が訪ねた頃には、悲しみに暮れ寂しく死んだ悲劇の主人公だと。そうすれば、オレはさらに純粋な生徒たちを取り込むことができる。ありがとうな、糸雨」

 肩が震える。今度は、恐怖じゃない。

 これは、高揚だ。

 雨の町一の有名人を蹴落として知名度を獲得できるという悦び。

「おっと、生徒思いの担任ならばきちんと葬式を開いてやらないとな」

 警察に連絡を入れるために、男は一度〈キネマレヴリ〉から出ようとする。

 しかし、出られない。

 足が動かない。

 なんで動かないんだ、と太もも辺りを叩きながら呟いていると、館内アナウンスのような共鳴した男の声が耳元で聞こえた。

『――……者。……ね』

 か細くてほとんど聞こえない。けれど、耳に残る繊細な糸のような……。

『――こえ……のか』

 その声が徐々に近づいてくるように聞こえた。

 悦びに打ち震えた肩がすっかり動きを止める。

「……誰だ‼ オレは、糸雨を迎えに来てやったんだ‼」

 どこに向かって言えばいいのかわからず、見回しながら叫ぶ。すると、

『その必要はない』

 か細い糸がピンと張り詰めたように、よく通る声が響いた。

 そして、その声に男は驚く。

「……ぃし、ぅ」

 うまく声が出せない。

 ただ、それは明らかに糸雨の声で男は幻を聞いているのかと思った。

『――侵入者よ。ね』

 声はさらに雰囲気を変え、冷徹で鋭利な針となった。

 男は、本能のままに後退る。しかし、

『誰が動いていいと言った』

 去ね、と言ったのに、男は出ていくのを許されなかった。

「なぜだ‼ オレに何をするつもりだ‼」

『侵入者よ。ここは理想郷。おれと霖の二人だけの理想郷。そこに他者の干渉などあってはならず。しかし、二人だけの世界と言うのは殺風景なものだ。ならば、エキストラが必要だろう。だから、おれは決めたのさ。ここに侵入した者は全て――』


〈キネマレヴリ〉の血となり、糧となれ、と。


 男に拒否権などありはしない。全ては館長糸雨の采配で決まる。

 糸雨は確かに死んだ。それでも聞こえるこの声は、男の幻聴だ。ただ、幻聴と言うにはいささか意味が異なる。この言葉は、確かに糸雨が喋っているのだから。理想郷となったここ〈キネマレヴリ〉の白昼夢で。

『光栄に思え、侵入者よ。君が記念すべき一人目のエキストラだ。これで君の知名度も上がるだろう。――せんせ』

 男は、動かない足に鞭を打ち、無理やり部屋を出ようとした。震える足がバランスを崩し、倒れ込む。……砂の感触だ。そこに広がっていたのは、

「……きれいだ」

 見渡す限りの青空と青い海だった。

『ようこそ、おれたちの物語へ』

『わたしたちは二人で一つ』

『『もし邪魔をしたら、赦さない』』

 研ぎ澄まされた糸の声と凛と鳴る鈴の声が男に絶望を知らせる。

 男を包んだ淡い光は、温かかった。

 男が背後を見ると、穏やかに眠っていた糸雨の表情が険しくなっているように見えた。

『ようこそ、一人目のエキストラ』

 役者モブを迎え入れる声はとびきり甘く、魅惑的な響きを以って。

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