第四章 置いて行かないで
〈キネマレヴリ〉に霖の気配はない。
海から帰宅して三日。そしてそれは、夏休みは毎日〈キネマレヴリ〉にいる、と言っていた霖が家に帰っている日数と同じ。
すぐに戻ると言っていたのに。結局〈キネマレヴリ〉に戻ってくるのは今日の午後だそうだ。
待ちくたびれて、作業にも身が入らない。
時計の針は、一二時を指そうとしていた。
「迎えに行くか。心配だし」
呟き、〈キネマレヴリ〉を出た。
「霖、驚くかな」
外に出たがらない糸雨が、迎えのためだけに外へ出るなんて、と。あの大きな真紅の瞳が見開かれるのを期待して、大通りを歩く。僅かな期待が、三日ぶりに会える霖に対してからか一歩歩む度に膨れ上がっていった。
小雨が降り、周りの音をかき消してくれる良い天気の中、ふと不快な音が耳を通り抜けていく。
車の加速音だ。
人通りや車通りが少なく静かだからといって法定速度は守らなくてはいけない。運転手の顔は見えなかったが、そのうち捕まるだろう、と霖の下へ急いだ。
しかし、糸雨と再会した霖は血まみれで横断歩道に倒れていた。
「り、ん……?」
道路の向かいから呼びかける。
いつもなら、糸雨、と鈴の音の声で呼び返してくれる。それなのに、
「霖」
何も、聞こえない。
雨が止んだのだと、狭まる思考で淡く知った。
呆然と立ち尽くしていた足を動かし、駆け寄ると、霖は僅かに目を開いた。
「霖……‼」
起きてくれた。けれど、
「……し……ぅ……」
軽やかな鈴の声は掠れていた。本当は抱きしめたかった。ただ、抱きかかえたら傷に障る。
それを察したのか、血で赤く染まった霖の手が伸びてきて、糸雨はそれを握った。雨の匂いに混ざった鉄の匂いを、糸雨は知りたくなかった。
「霖、すぐに病院に行こう。そしたら、すぐによくなるよ」
「し……ぅ……ご、めん……ね……。轢、か……れちゃっ、た……」
「なんで謝るの? 霖は謝らなくていいんだよ。霖は悪くないんだよ」
血が止まらない。
霖が首を緩く振った。
「し……ぅを、お、ぃて……ぃっ、ちゃぅ……から……わ、たし……が、わ、るぃ……の」
霖の目に涙が溜まっていく。
「置いていく? 霖が? そんなことあるわけないだろ。良いから早く病院に行こう。おれが抱えて行くから――」
「良い、の」
霖は、幼い頃から病院に行きたがらなかった。それは、医者に痣が見つかってしまうからという理由からだったが、それでも命に係わる場合は行ってくれるだろうと思っていた。
「ちゃんと、みて。もう、た、す、ぁら……な、ぃ、って、わか……で、しょ?」
霖が糸雨の頬を撫でる。糸雨は霖を目に映したくなかった。血に塗れた霖を見たら、嫌でも知ってしまうから。
霖の力が抜けていき、糸雨の頬から手が滑り落ちそうになる。霖はまだ触れていたい、と力を振り絞るが、頬に感じるそれは水分を含み鉄の匂いを帯びて、糸雨の頬を濡らした。
意図せず糸雨は、それが霖の瞳に似ていると思った。
鮮やかな赤。
何も言えなかった。ただ俯いて、頬から落ちる手を押さえらえなかった。
「し……ぅ…………しにたく、なぃ……」
はっとして顔を上げる。すると、
「やっと、み、てく、れ……たぁ……」
霖は笑った。
鮮血を背に、朗らかに。
その光景が、糸雨の目に焼き付いて堕ちた。
「霖」
甘く、優しく呼びかける。
「霖、」
もう呼び返してくれない声を脳で反芻しながら。
「病院に行こうか」
雨上がりの水溜まりに反射してスポットライトのように差す陽光を纏い、糸雨は、もう自分を映さない最愛へ歪に微笑んだ。
一週間後、霖の葬儀が行われた。
どうやって〈キネマレヴリ〉に帰ったのか、それからどうやって今日まで過ごしたのかまるでわからない。
ただ、わかるのは、空虚感と飢餓感だけだった。
あれから雨が降っても嬉しくなくなってしまった。自分を閉じ込めてくれるあの雨音が今はうるさくて、悲しい。ただ、晴れてほしいとも思わない。晴れたら赤に染まった霖が脳に現れるから。現れるのに会えないなら、自分だけの思い出が良い。
糸雨は、雨の町の北東にある葬儀場に向かうと、その光景に目を見開いた。
規模が小さすぎる。糸雨と違って、表向きでも慕われていた霖の葬儀なのだから参列者も大勢いるはずなのに、葬儀場には近親者のみの一〇人くらいしかいない。陶器類は白で統一されて一見壮麗に見えるが、よく見ると、全てヒビが入っていて花を挿していない。遺影の前の献花もほとんどなく、その他の装飾品は最低限までなくしたらしい。霖が頼んだわけでもないのに。
糸雨は、真っ先に霖の叔母と婚約者に会うことにした。
叔母は、おかめのように白い厚化粧を施してその頬を人工涙液で濡らしていた。その横で婚約者がハンカチを当ててあげると、群青色が白い粉でいっぱいになる。
何の冗談か。彼らは至って真面目にやっていた。
「演技ならもう少しマシなのを見せてくれよ」
糸雨は、わざと聞こえるように吐き捨てる。霖の魂を汚す行為だ。マシにできないのならやめてほしいし、マシにできたとしてもこの場から出て行ってほしい。
「あらぁ~糸雨くんじゃないの! お久しぶりねぇ~」
狐の目をとがらせて、叔母は糸雨を睨みつけた。しかし、顔は狸で声は猫なのだから、糸雨は叔母のことを一度も人間と思ったことなどない。さあ零れてしまいそうな嘲笑をどうしたものか。
「会ったことありましたっけ? 叔母さん」
平坦な口調で言ったつもりだが、狐の目はさらに吊り上がっていく。
「記憶力がないのかしらぁ? 糸雨くんは頭が良いと聞いていたのだけれど、所詮は学校の中での話だものねぇ」
よく吠える姿は犬のようだ。
「叔母さんはその学校の中でも勉強が得意ではなかったと聞いておりますが。どの口がほざくんでしょう」
寝不足と栄養失調の頭でも口は回るのだなと、糸雨は脳の片隅で思う。
後ろに控える婚約者の顔が怒りで皴が寄って梅干しのようになっている。
「やぁ、糸雨くん。彼女に向かってその口の利き方はいけないな。僕がうっかり何をしでかすかわからないよ」
婚約者は笑っていた。しかし、目は光を映しておらず、霖はおそらくこの目が苦手だったんだろうと、糸雨は思う。
「その人がおれに対して失礼なことを言ったから言い返したまでですよ、おっさん」
本当は、こちらから喧嘩を売ったわけだが、まあ細かいことはどうでも良い。恨みを込めて言うと、自然と声は低くなった。
「ところで、叔母さん。この葬式はどういうことでしょう。一体いつまで恥ずかしい真似を繰り返すつもりです?」
「恥ずかしいですってぇ? どこがよ。霖に似合う最高のものを準備した結果よ」
「ここはあんたにお似合いの葬式なのであって霖には相応しくない」
「はぁ? 葬式費用に一体いくらかかったと思っているの⁉ あの子は私に迷惑ばかりかけてうんざりするわ‼」
「こんな粗末な葬式の金額なんてたかが知れてんだよ。大体、なんでもかんでも霖にやらせていたんだから、むしろ迷惑をかけてんのはあんたらのほうだ」
葬式場に叔母と糸雨の声が響く。
「僕らは霖に教育を施していただけさ。家事も礼儀作法も大事なことだろう?」
「持論は別に聞きたかねえんだ。おっさんは黙ってろよ」
情緒が安定していない脳の苛立ちと精神の崩壊した空虚な感情を元凶である彼らにぶつけることが糸雨にとっての遊戯だ。
「そこまで言うなら糸雨くんが出したら良いでしょう⁉」
この人たちはどこまで落ちぶれたら気が済むのであろうか。叔母の意見に婚約者も頷いていて、糸雨は心底うんざりした。
「だったら、葬式前に言えよ。そしたらおれが相応しい葬式にしたってのに。いくらだ? 払ってやるよ」
叔母と婚約者は途端に笑みを浮かべる。仮にも姪の葬式だっていうのに悲壮感など何もない。だから、ほんの少しの反抗として、
「ただし、あんたらが子どもに金をたかるような非情な大人だってことがバレても良いのならな」
一言、彼らには聞こえない声量で呟いた。
涙は出なかった。
小さくなった霖は、霖の両親と同じ墓に埋葬された。親子水入らずで嬉しいだろう、と糸雨は思うが、どこかふつふつと沸き上がる欲があった。
骨が欲しい。
「叔母さん」
霖に後ろめたさを感じながら、気づいたら口をついていた。
「霖の骨もらうぞ」
糸雨は、葬式の費用を引き換えに叔母を脅して、霖の左手薬指と骨の粉末を奪い取った。
「ごめんな、霖。ごめん……」
眠らせてあげたい。けれど、共にいたい。
糸雨は、葛藤に苛まれながら作業部屋にそれを飾り付けた。
その夜、糸雨は、粉末を入れた小瓶を抱きしめて眠ろうとした。
大雨。糸雨と霖を閉じ込めた心地よい世界は、もうない。雨で気温が下がっても、温めてくれる体温もなければ、感触もない。
小瓶は固くて冷たかった。
眠れない。眠りたい。眠れない。眠りたくない。眠れない。
枕の下に小瓶を入れてもそれは変わらなかった。
霖がいなければ、夜が長く感じる。時間が長いのは嫌だ。いつか霖の下へ往けたとき、霖に追いつくまでの距離があまりにも長く感じてしまうから。
大雨は、強さを増してその他の音をかき消す。
そして、糸雨を一人にする。
「寂しい。寂しいよ、霖」
涙は出なかった。
ふと、天井を見上げて〈キネマレヴリ〉はもうこんなにも寂びていたんだな、と糸雨は思う。
「霖。……霖」
呟き、天井に手を伸ばす。空虚を掴んだ手はへたりと沈んで、もう会えないことをより鮮明に自覚しただけだった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」
何日も手を伸ばし続けていると、ふと叫びだしたくなって、訳が分からないまま声を上げた。
枕に顔を埋めてひたすらに叫び続けると、のどの痛みを感じた次に鉄の味がする。
抜け殻か、出汁も取れぬヒトのガラか。
もう紳士的に振る舞う必要も、そう振る舞いたいと思う相手も、振る舞うことを考える思考すらもなくしてしまった。
あんなに好きだった写真も映像も、所詮は霖のために始めたことだった。祖父に褒められて、霖に期待されて、浮かれて。自分にも何かできるのだと、自分にしかできないのだと自惚れていた。
糸雨は、霖がいなければ何もできない。
――むしろ迷惑をかけてんのはあんたらのほうだ。
自分自身に言ったことなのかもしれない。
いつも霖に助けられていた。だから、何か返したくて、でも何をしたら良いのかわからなくて。
霖は、糸雨が撮った映像を嬉しそうに見てくれた。なら、霖が喜ぶものを撮ろうと思って、撮り続けて。果てには、霖を撮るようになって。やっと、何かを返せると思った矢先に、霖はいなくなった。
霖がいないのなら、もう撮ったって何にもならない。なら、ただ過ぎる時間を待つしかない。
「お腹が、空いた」
こんなときにも腹の虫は鳴く。けれど、食べられない。
叫べば、さらにお腹は空いた。体力も消耗した。
これで良いじゃないか。もしかしたら、早く傍に往けるかもしれない。
「は、ぁははははははははははははははははは……」
乾いた嘲笑だった。
叫びと嘲笑を連日繰り返して、〈キネマレヴリ〉は淀んでいく。
なだめ、癒し、幸福を与えてくれる人は、もういない。
「霖、置いて行かないで」
求める声に応えてはくれない。
骨が手元にあっても魂は空の彼方に。
「ほ、ね……」
つい思ってしまった。
骨を飲めば一心同体になれるかもしれない、と。
粉末を数回に分けて水で流す。乾いた喉に粉末が張り付いてなかなか流れて行かなかったが、嫌な気分ではなかった。
けれど、これで会えるはずもなく、糸雨は、またベッドに沈んでいく。
次の日、糸雨は咳が出て、止まらなくなった。最初は、軽いものだったが、嘔吐き始めて、最後、
鮮やかな赤。
灰色に汚れたシーツが染まった。
「霖、もうすぐそこへ往けるかもしれない」
思考が鮮明になる。もう長くない命が糸雨を悟らせる。
ただそこにあるのは、虚無と喜びだけだった。
一週間後、糸雨は作業部屋にいた。
何かに憑りつかれたように、駆り立てられるように、糸雨は写真と映像に向き合っている。
どうせ眠れないのなら、もう眠らなくて良い。
「……もう少しだ」
糸雨は、ここ一週間休むことなく、撮り溜めた霖を一本のネガフィルムにしていた。
出来上がるにつれて、糸雨の望みが叶っていく。
それでも糸雨は飢えていた。
霖の声が聴きたい。霖の笑顔が見たい。霖と出かけたい。霖のご飯が食べたい。霖に触れたい。
「霖に会いたい……」
呟きは、大きな欲望となり、糸雨を支配する。
「……できた」
達成感はなかった。それは、虚像でしかないから。
それでも、ネガフィルムの中の霖は生きているように見えた。いや、生きていた。
「綺麗だよ、霖」
本当はあの海に行った日に言いたかった言葉。今はもう伝えられない言葉。
それを、瞬きも忘れて見つめていた映像に向けて呟く。
もう何度目かも忘れた咳を口で押さえると、ドロッとした感触がした。そして、次には肺辺りにズキズキと痛みが走った。
ああ、ついにか。
なんとなく、そう察する。
胸を押さえながら、糸雨は机の引き出しからシルバーリングを取り出した。小さい方を霖の薬指にはめてあげて、大きい方を自分の左手薬指にはめる。
あの日より痩せてほとんど皮膚と骨だけになった指には指輪はぶかぶかで、けれど、それがよかった。それも思い出だから。
しばらく眺めていると、指に赤みが出てそこから痒みを感じた。金属アレルギーの症状だ。微かな刺激があの海を思い出させる。
胸の痛みが増して顔を
噛み締めるように目を伏せて、次に目を開いたとき、作業部屋に淡い光が灯っていた。何が起きたかわからないのにどこか頭は冷静だった。
淡い光が、糸雨の目の前に集まり、形を成し、光が消える。それは、霖だった。
「………………り、ん?」
霖は頷くと、微笑んだまま両手を前に広げて、糸雨を迎え入れた。
おぼつかない足取りで霖の下へ数歩進み、手を伸ばす。
「糸雨」
名前を呼んで、手を取ってくれた。
名残惜しくも手を放して霖の頬を包み込むと、霖が糸雨の手に擦り寄る。
「……霖だ。本物の霖だ」
「本物以外に誰がいるのよ」
霖が吹き出して、涙を滲ませる。それを見た糸雨も確かに、と微笑んで涙が滲んだ。
額を重ねて、お互いのことを確かめた。
「久しぶりだね、糸雨」
「ああ、本当に久しぶりだ。もうこんなのは
目からとめどなく溢れた涙が、頬に添えた手を温かく濡らす。
「ごめんね、糸雨」
霖が糸雨の涙を拭ってくれる。
――お願いだから、わたしを置いて行かないで!
今度は、糸雨が、
「頼むから、おれを置いて行かないで」
縋りついて、離さなかった。
「置いて行かないよ」
「もう、いなくならないで」
亡くなった瞬間も葬式でも涙が出なかったのに、今はせき止められない濁流だ。霖の涙は、サラサラと流れる清流のように綺麗で、ずっと見ていたかった。
「いなくならないよ」
囁きは、鈴の音の凛とした声。
外は未だ大雨。もっと降り続いてほしい。
胸に耳を寄せると、
「霖の鼓動は聞こえないね」
「糸雨の鼓動も聞こえないね」
「君のせいだね」
「貴方のせいね」
同時に言って泣き笑い、強く抱きしめ合った。
「さあ、糸雨。往きましょう」
霖が手を差し出す。もう手を伸ばさなくても良いんだ、と糸雨は思った。
「ああ。往こう」
淡い光に二人は包まれて、儚く消えた。
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