第三章 妖精を映す騎士
糸雨は、登校期間中、満足に進められなかった作品を完成させるために夏休みを使おうと計画していた。
「霖、海行かない?」
大雨の轟音に包まれる〈キネマレヴリ〉で霖の膝に頭を預けてくつろぎながら、糸雨が言う。
「滅多に外に出たがらないのに。珍しい」
霖は大きな目を見開いて、けれど大きく驚いた様子でもなかった。
「夏休みは作品作りに充てようと思ってね。それでさ、」
手を伸ばして、糸雨は霖の白く透き通った銀髪を一束掬う。
「霖、
「わたしよりいい人がたくさんいるわ」
案の定断られようとするが、糸雨には秘策があった。
起き上がり、弄んでいた霖の髪に口付けをする。
「君以上にいい人はいいよ。ついでに
紳士的に、けれど、まだ少年さの滲む無邪気さではにかむ。
今まで贈り物はたくさんしていたが、どこにも連れて行ってあげられなかった。本来の目的は撮影だが、せめて、霖へいつもの感謝を伝えたい。どうすればいいのかと悩んだ結果、逢瀬の一つでもしなければならない、という結果に辿り着いた。
調べてみたら、海は絶好のデートスポットだと言うじゃないか。
糸雨は完璧なデートプランを計画した上で霖を誘った。だから、霖も誘いに乗ってくれると思いきや、
「どうしたの、糸雨? 具合悪い?」
霖の返事は、期待する糸雨にとって冷たいものだった。
「なんでそうなるんだ!」
普段は滅多に声を張らない糸雨が叫んだ。といっても、少年が叫ぶにはまだまだ小さい声だが。
「なんで、って。てっきり糸雨は、
「興味はないよ。でも霖は別」
興味はない、という言葉に霖はほらやっぱり、と呆れる顔をした。
「興味がないって言ったおれが行くって言っているんだよ。霖は行かないの?」
さも、霖が来ることが当たり前だという言葉に、霖は溜め息を吐く。しかし、それは決して嫌がっているものではなかった。
「仕方ないわね。ありがとう、糸雨。海行ってみたかったの」
早朝、糸雨は霖に起こされた。
「まだ、夜明け前だよ、霖……」
寝ぼけながら布団を被ろうとする糸雨を霖は止めた。
「遠出するんだから早く支度しないといけないでしょ。糸雨が言ったのよ、六時半には出発しよう、って」
「う~ん……」
不眠症のくせに寝たら寝たで寝起きの悪い糸雨。
「じゃあ、
「……いやだ」
糸雨は、すぐに起き上がった。
その後、髪も梳かさず、いつものシャツとスラックスの地味な格好で〈キネマレヴリ〉を出ようとした糸雨は、霖に止められてジャケットを羽織らされた。それから、されるがまま髪を梳かされ一つに結んでもらうと、灰色の銀髪に僅かに艶が出て清潔感が戻った。どこか満足気な霖を眺めながら、糸雨は隣街の海へ向かった。
朝と夕方の二本しかないバスに乗り込み、向かうこと二時間。
その街は、雨の町と違って晴れていて、栄えていた。
街の観光資源であるその海は、太陽に照らされて輝き、広くて真っ青だった。
そして、海を見たことがない糸雨と霖は、海に釘付けになった。
汚れていない水を見るのは初めてだった。
「ねぇ、糸雨。海って綺麗なのね」
霖が、糸雨のシャツの袖を引っ張る。浮かれ気味の霖を見た糸雨は、喜んでもらえてよかったと思った。
しかし、まだ海には行かない。
「霖、ちょっと行きたいところがあるんだ」
糸雨がどこかへ行きたいなんて珍しい、ときょとんとした顔をされる。
糸雨が、霖と手を繋いで向かった先は、アクセサリーショップだった。
「何を買うの?」
糸雨に財力があるからといって高級ブランド店を訪ねることは滅多にない。
「霖とお揃いが欲しいなと思ってね」
躊躇することなく扉を開くと、店員が深々と頭を下げて出迎えた。
「「「「「いらっしゃいませ」」」」」
予約をしていた、という糸雨の言葉を聞いて霖は、
「本当にあの格好で来なくてよかったわ」
と、溜め息を吐いた。
「ご依頼の品です」
店員が持ってきたものは指輪だった。金色や銀色のシンプルなものから大きな宝石がついたものまで様々。
「霖、何が良い?」
問いかけると霖は、え、と目を見開いた。
「これ、わたしが選んで良いの?」
「おれは霖が選んだものをつけたいの」
霖は金額を見たら驚くだろうから、と店員に頼み、値札は隠してある。
「……これ、かな」
霖が指を差したのは、一番安いものだった。値札は隠していても高いものと安いものではどうしても見分けがつく。それでも、
「本当に良いと思ったの?」
霖が欲しいと言ったら買うつもりだったが、これで良いと言うなら話は別だ。
「これが良いと思うものを選ぶんだよ」
「……これ、がいい」
霖が欲しいと言ったのは、宝石が何もついていないシンプルな銀色の指輪で、けれど、細かな葉の彫刻とまるで輪がねじれたようなデザインは壮麗で美しかった。
「じゃあ、これをつけてみようか」
指のサイズがわからない、と言うと、店員が幾つかのサイズを取りに行く。
値段がわからないことで不安に思っている霖には悪いが、最初に選んだ最安値の物と比べると最終的に選んだものは桁が違った。
「お待たせ致しました」
店員が持ってきたものをつけてみると、糸雨は一〇号、霖は七号がちょうどよかった。お互いにはめた、お揃いの指輪を見つめて微笑んでいると、糸雨は指輪をはめた左手薬指に違和感を覚えた。
「……糸雨、どうかした?」
糸雨の細かな表情の変化を察知した霖に尋ねられるが、糸雨はさりげなく、右手で左手を隠す。
「なんでもないよ」
指輪をはめたところから指先にかけて皮膚が赤くなって痒みを感じる。
「お客様――」
店員が気づいて声を上げるが、糸雨が片手で制止する。
お洒落を楽しむ趣味がなかった糸雨は、初めてアクセサリーを身に着けた。そして、金属アレルギーだということに気づいてしまった。
糸雨の隣では、自分を彩る指輪をうっとりと見つめる霖の姿がある。糸雨は、霖のためなら多少の痛みはどうでもよかった。
「これ買います」
外面の良い、作った笑顔で店員へ伝えると、症状を見てか、やはり店員は渋った。
「値段のことなら気にしていないので」
霖の前で気づかれては、折角気に入ったものを手放す羽目になる。どうしてもそれは避けたかった。
「いえ、値段のことでは――」
「早くしてもらっていいですか」
気にしてくれるのはありがたいが、糸雨にとってはいらぬお節介だ。それとも、訴えられるかもしれない、という保身からだろうか。
「良いものに出会えてよかったですよ」
保身のための心配なんてしなくても良い、と伝えると、店員は安堵したようだった。
結局は皆自分のことばかりで他人の心配は二の次だ。
「「「「「お気をつけてお帰り下さい」」」」」
店員たちが一斉に見送ってくれるが、糸雨と霖は振り返らなかった。
涼しかったアクセサリーショップを出て、海水浴場へ到着した。いよいよ撮影をしようと思っていたが、砂浜にパラソルを立ててレジャーシートを敷いて荷物を置くと、糸雨と霖は動きたくなくなってしまった。
この日の天気は快晴。気温は日が昇るにつれてどんどん高くなる。遊び盛りの健康な人ならば喜ぶべきロケーションとコンディションだが、不健康な二人にはいささか過酷なものだ。霖の白く透き通った銀髪が太陽に反射し、儚げな表情を浮かべている様は、一見すれば黄昏ているように見えるが、考えていることは暑い、しんどい等ネガティブなもので溢れているのだろうと思うと、糸雨にとってはこの上なく面白い光景だった。
「霖、そろそろ撮らないと陽が沈んでしまうよ」
「陽が沈んでからも撮るでしょ」
「もちろん。太陽の位置によって写真は全く違うものになるんだから」
「先にお昼ご飯を食べてからにしよ?」
「おれは海の家行けないよ」
「大丈夫。作ってきたから」
いつの間に、と糸雨が聞くと、
「糸雨が身支度をしている間に作ったのよ。簡単なものばかりだけど」
霖はそう言って小さな鞄のような箱を開けてサンドウィッチを見せる。具は、卵サンドとハムレタス、ツナマヨネーズの三種類。
てっきり手荷物が入っているのだろうと思って、気にも留めていなかった。
しっかり保冷材も入れられた、冷たく美味しいサンドウィッチは、すぐに糸雨の胃に入った。霖の分も残そうとしたが、せっかく海に来たんだから、と霖は海の家でやきそばを買っていた。
腹ごしらえも済み、いよいよ撮影が始まる。
海を背景に、霖が砂浜に立つと、カメラから目線を逸らすよう糸雨が指示を出した。
撮影のために新調した白いワンピースは、痩せ細った霖の身体をある程度覆い隠して健康的に見せる。真夏の昼間だが、痣がある二の腕は隠すしかなく、代わりに痣のない肩と肘から手にかけては見せることができた。霖の白く透き通る銀髪とワンピースの裾が風に揺れて、糸雨はシャッターを切る。
妖精みたいだ。
単純で純粋な感情だった。
顔が緩むのを隠すようにカメラを構えると、糸雨、と軽やかな鈴の声が呼んで微笑んだ。それは、数年ぶりに見た霖の最上級の笑顔だった。
シャッターを切る。
隠していた顔を上げて糸雨も、ぎこちないながらにここ数年で一番の笑顔を向けようと、霖の目を見た。
それは、暖かくて気恥ずかしい、愛しさの視線で、
「霖、海の方を向いて。背後から撮るから」
見惚れてしまいそうになるのを必死に誤魔化した。
ふと、視線を感じる。正確には、霖への視線を糸雨が察知した。
目の端でその人物を観察すると、観光客だと思われる男が四人ほど、霖を舐め回すように眺めている。
「霖」
呼んで傍に寄ると、霖はどうかしたのか、という表情を向けた。
「いや、少し虫が見えたから」
「虫?」
ああ、と頷くと、虫苦手だったっけ、と霖は言った。
「霖の近くにいたからだよ」
「わたしも虫は平気よ?」
気づいていないはずの霖が放った一言に、糸雨は吹き出した。
「なんで笑うの?」
「いや、」
目の端にいた男たちが目を吊り上げて立ち去る。
「虫が逃げたからよかったなと思って」
他にも女たちの熱い視線も感じたが、糸雨には心底どうでもよかった。男たちは虫に見えたが女たちはじゃがいもに見えて、まるで人の形をしていないものたちが色香をはらんでいることに嘲笑が隠せなくなりそうだった。
ただ、二人きりの時間を邪魔されるのは腹が立つ。霖が背中を向けた一瞬、糸雨は目を伏せると、思考から排除した。
「そろそろ休憩にしようか」
「うん」
日が傾くまで撮影を続けて、ついに終わった。
昼間は賑わっていた海が夕方になると
バスの出発までの間に休憩をしようと、汗をかいた体を冷やすために海に入ることにした。
寄せては返す波に緊張しながらもそっと足先をつけてみる。
「冷たっ」
糸雨が驚くと、霖は珍しく声を出して笑った。
「そんなに笑うか?」
「だって、糸雨が驚くなんて珍しいんだもの」
「そんなにかな? 霖といるときは素直なつもりなんだけど」
「もちろん、驚いているところを見ないわけではないけど、きっと海と糸雨が似合わな過ぎたせいね」
そう言って、また霖は笑った。
「なんか今、すごく失礼なこと言われた気がするんだけど」
「気のせいよ。ほら、もっと水に入りましょ!」
霖は糸雨の腕を引くと、恐れもなく膝まで水に浸かる位置まで入っていった。
「霖、危ないよ」
「大丈夫よ。糸雨と二人だもの」
「それのどこが大丈夫なんだよ」
口ではそう言うけれど、糸雨はわかっていた。何かあっても二人なら大丈夫の本当の意味を。
もし、海に溺れても二人で溺れるのだから置いていかれることはない。
もし、片方が危ない目に遭うのなら助けるか、自分も同じ場所へ行く。
これは、呪いだ。二人が長年築き上げた強固な信頼の証であり、片方がいなくなれば簡単に壊れる脆い誓いを含んだ呪い。
肩にもたれかかる霖の心地よい重さに目を閉じた。
「ねえ、糸雨」
「ん、なに?」
穏やかな時間は、ときに儚く消え去るものだ。
「雨の町に着いたら、家に帰るね」
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